【山隈太一朗〈1〉】中1の時、事件は起きた 「日本記録じゃね」伝説のやらかし

日刊スポーツ・プレムアムでは、毎週月曜日にフィギュアスケーターのルーツや支える人の思いに迫る「氷現者」をお届けしています。

シリーズ第10弾は山隈太一朗(22)。「引退」を明言して迎えた今季、全日本選手権(大阪)で観客と一体になる完全燃焼のプログラムを舞い、インカレでは明治大を20年ぶりの総合優勝に導いた主将となりました。

これ以上ないフィナーレに、シリーズ最長? の5時間に迫るロングインタビュー(後日の聞きそびれた部分の追加も想定!)に応じ、しゃべり倒した山隈。登場10人目という節目も記念して、全5回に分けて連載します。

第1回はスケートを始めた幼稚園の時から、初の日本一になる中学3年まで。(敬称略)

フィギュア

   

1月30日、八戸国体成年男子フリー 現役最後の演技でフィニッシュを決め、充実した表情を見せた

1月30日、八戸国体成年男子フリー 現役最後の演技でフィニッシュを決め、充実した表情を見せた

仲間から愛された明大前主将が振り返る競技人生

山隈太一朗のスケート人生は、双子の姉恵里子の希望に折れる形で始まった。

「彼女が『スケートをしたい』って言い出して。僕は、幼稚園のころからやっていたサッカーがしたかったのに! でもまあ、それぞれ違うスポーツをしたら親も大変ですし、双子といっても基本的には姉が優先でしたから。実際、僕もフィギュアスケートをすることになって『嫌や~! 何で、こんなことしなきゃいけないんだ。俺は今すぐボールを蹴りたい!』みたいな感じでやってたんですけど、いざ教室に通ったら、僕ら双子が群を抜いてうまくなって(笑い)。今でも記憶している景色があるんです。教室で、他の生徒がトントントントンって足踏みしながら氷の上を歩いている、その周りを、僕と恵里子がスーッて滑っている光景です。『これ、本気でやった方がいいんじゃないの?』となって、まず大阪で松本洋子先生の指導を受けることになりました」

幼稚園のころだった、と思う。記憶では「4歳か5歳の時」から浪速スポーツセンターで滑っていた。

「それまでは真剣じゃなくて、まあ『ちょっとやろうかな』ぐらいで楽しんでいたんです。洋子先生のところへ行った時も『フィギュアは嫌だから(アイス)ホッケーをさせてくれ!』って(笑い)。格好いい方がいいので。そうしていたら、親から『じゃあバッジテストで2級を取ったらホッケーやっていいよ』と言われ、取ったら『じゃあ次は3級ね』みたいな感じで延々とゴールに届かない。結局、そうこうしているうちに『本気でスケートやろうか』っていう話になってしまい、神戸クラブ(神戸ポートアイランドスポーツセンター)に移りました」

ノービス時代の山隈太一朗(本人提供)

ノービス時代の山隈太一朗(本人提供)

中野園子先生の目が覚める一言「あなたたちは…」

これが小学校1年生の時だった。

「そこからですね、本格的にスケートが始まったのは。中野園子先生のところへ行って、すごく気に入ってくださって…って、自分で言うのもおかしいんですけど(笑い)。最初の分岐点。と言うのも、中野先生から言われたんです、小1の時に。『あなたたちは世界に行きます』って」

振り返ってみると、当時のクラブは特に男児が少なかったという。

「3人だったかな。うち2人はコンスタントに練習へ来られる子じゃなかったので、自分だけ黙々と練習していました。だから最初から『世界』って言ってくれたんじゃないですか。男の子は貴重な存在でしたから。小1なので『いやいやいやいや』なんて思いながら、でも、しっかり覚えています、あの言葉は。サッカーで目指していた『世界』という言葉に本気にさせられて、だんだん練習で忙しくなって。サッカー、水泳、ピアノに書道と、たくさん習い事していたんですけど、もうフィギュアスケートの他は全部、手に付つかなくなりました。サッカーも試合しか行けなくなっていたし、周りも『何や、あいつ。試合の時だけ来るやん』みたいな感じの目になってたんで『これは無理だな』と。いよいよスケートに専念することになりました」

とはいえ、すぐ「せめてピアノだけは続けさせて」と言い出したように、思いは揺れながらも、神戸で1年、2年がたつと、成長を幼心ながらに実感できた。

「トントンと上に行けている感じはありましたね。練習についていくのに必死すぎただけだったと思うんですけど、そのうちスケート以外のことを何も考えられなくなって、もう気づいたらズブズブにはまっていましたね、沼に(笑い)」

15年全日本ジュニア、フリーの演技。当時15歳

15年全日本ジュニア、フリーの演技。当時15歳

「厳しかった…坂本の指導、そのままです」

中野コーチは当時から熱く指導してくれた。

「厳しかったですよ(笑い)。練習量がすごいのは前提として、本気で臨むことを求めるので、遊びをあまり許さないというか。ノビノビよりは『勝ちたくないの!』っていう、それこそ今の(同い年で親友の)坂本(花織)の指導、そのままです。もちろん技術的な指導は時代によって変わるんですけど、根本、コンセプトは変わらないと思います。あんなに怒られること、なかなかないです(笑い)。でも楽しかったですね。やめたいとかは全然。全国で戦える、日本のトップを目指せると思わせてくれる環境でしたから」

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スポーツ

木下淳Jun Kinoshita

Nagano

長野県飯田市生まれ。早大4年時にアメリカンフットボールの甲子園ボウル出場。
2004年入社。文化社会部から東北総局へ赴任し、花巻東高の大谷翔平投手や甲子園3季連続準優勝の光星学院など取材。整理部をへて13年11月からスポーツ部。
サッカー班で仙台、鹿島、東京、浦和や16年リオデジャネイロ五輪、18年W杯ロシア大会の日本代表を担当。
20年1月から五輪班。夏は東京2020大会組織委員会とフェンシング、冬は羽生結弦選手ら北京五輪のフィギュアスケートを取材。
22年4月から悲願の柔道、アメフト担当も。