【松原星(中)】ラスト演技、体が動いた3Lo+3T「最後の最後で役立つなんて…」

日刊スポーツ・プレミアムでは毎週月曜に「氷現者」と題し、フィギュアスケートに関わる人物のルーツや思いに迫っています。

シリーズ第40弾は現役時代にジュニアグランプリ(GP)シリーズなどを経験し、現在は社会人2年目を迎えた松原星(あかり、24)が登場しています。

全3回の中編はこだわったジャンプ、幼少期の歩みについて掘り下げます。(敬称略)

フィギュア

◆松原星(まつばら・あかり)2000年(平12)12月3日、群馬・高崎市出身。星がきれいな夜に生まれたことが名前の由来。3歳でスケートを始める。小学1~3年生は埼玉・川越市で競技に打ち込み、小学4年生からは誕生したばかりの西武東伏見FSCに所属。西東京市が拠点。東京・武蔵野高を経て、明治大。11年全日本ノービス選手権でB優勝。17年ジュニアグランプリ(GP)シリーズのポーランド大会で6位。全日本選手権は18年から5年連続出場。ラストシーズンは千葉・船橋市のMFアカデミーで過ごし、23年春の大学卒業で現役引退。

最後の競技会

2023年1月31日。太平洋側の青森県八戸市は1日中、氷点下の寒さだった。朝方には雪が降り、強めの北風が吹いていた。

3年ほど前の春にJR八戸駅前へ誕生した多目的アリーナ「フラット八戸」では、国民体育大会が行われていた。

明治大4年生の冬を過ごしていた松原は、これが最後の競技会となることが決まっていた。

冬季国体成年女子SPで演技を見せる松原(2023年1月30日撮影)

冬季国体成年女子SPで演技を見せる松原(2023年1月30日撮影)

東京都代表として、3つ年下の住吉りをんと出場。前日30日のショートプログラム(SP)では62・50点の6位につけ、4位に入った後輩とともに好スタートを切っていた。

フリーは坂本花織、三原舞依らが名を連ねる最終グループの第1滑走だった。

冒頭には得意とするサルコー-トーループの連続3回転ジャンプを組み込んでいた。だが、サルコーの着氷が理想通りにいかず、1回転トーループがつく形となった。

「『最後なのに跳べなかった…』と正直、自分にイラつきました」

中盤の3回転ループ。連続ジャンプを跳びにいったわけではなかった。

それでも―。

着氷後、気づいた時には3回転トーループを跳びにいっていた。

想定になかった連続ジャンプを、0・49点の加点で決めきった。

「『ループを成功させないと、私、何も見せ場がない』という状態で跳んで、降りた瞬間に『あっ、トーをつけられる!』と思ったんです。そこまでは1ミリもループトーの思考はなかったです」

東京都として3位に食い込んだ最後の国体。演技を懐かしんで、付け加えた。

「セカンドトーは…体が覚えていましたね」

冬季国体成年女子フリーで演技を見せる松原(2023年1月31日撮影)

冬季国体成年女子フリーで演技を見せる松原(2023年1月31日撮影)

川越で刻まれたスケートの楽しさ

2000年12月3日。21世紀が近づく師走の、星がきれいな夜に生を受けた。

幼少期は群馬県高崎市で育った。少し人見知りをする一人っ子は、両親の愛情を一身に浴びた。母はアイスダンスを見ることが好きだった。その影響で3歳の時、初めて氷に乗った。

「母からは『学生時代にスケートをやりたかった』と聞きました。リンクも多くないし、お金もかかるし…。その時から男の子が生まれても、女の子が生まれても『スケートを絶対にやらせる』と決めていたそうです」

幼稚園のマーチング発表会で笑顔を見せる松原星さん(本人提供)

幼稚園のマーチング発表会で笑顔を見せる松原星さん(本人提供)

両親は社交ダンスに親しんでいた。そこからアイスダンスとの共通点を見いだしていたのかもしれない。

「当時の記憶はありませんが、すごく泣き虫で、母から全く離れられないのが私でした。でも、スケートに放り出されると、楽しくやっていたそう。その記憶は残っています」

前橋市にあるALSOKぐんまアイスアリーナが“庭”だった。地元高崎市のニューサンピアでも滑った。小学校への入学に合わせて、埼玉県の川越市へと拠点を移した。より良いスケートの環境を求め、家族で引っ越した。

幼稚園に通っていたころ、リンクの上で笑顔を見せる松原星さん(本人提供)

幼稚園に通っていたころ、リンクの上で笑顔を見せる松原星さん(本人提供)

コーチには今日の佐藤駿を指導する浅野敬子と日下匡力がついた。その温かいまなざしが忘れられない。

「学校が終わって、夕方の練習のためにリンクに行きます。母に報告するような『今日の給食は…』みたいな学校の話を、浅野先生と日下先生にしていました。川越にはお姉さんたちがたくさんいて、すごくかわいがってもらって…。常に上の方にかわいがってきてもらいました」

先輩スケーターに交ざって練習するのが、何よりも楽しかった。

「スピンやってみてよ!」「上手じゃん!」…。

そんな会話をしながら、周囲を見渡しながら、技術を身に付けていった。

スケートの楽しさが、川越の地で深く刻まれた。

川越から東京へ

次の転機は2010年、ノービスBとなる小学4年生だった。

本文残り66% (3722文字/5597文字)

大学までラグビー部に所属。2013年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社。
プロ野球の阪神を2シーズン担当し、2015年11月から西日本の五輪競技やラグビーを担当。
2018年平昌冬季五輪(フィギュアスケートとショートトラック)、19年ラグビーW杯日本大会、21年東京五輪(マラソンなど札幌開催競技)を取材。
21年11月に東京本社へ異動し、フィギュアスケート、ラグビー、卓球、水泳などを担当。22年北京冬季五輪(フィギュアスケートやショートトラック)、23年ラグビーW杯フランス大会を取材。
身長は185センチ、体重は大学時代に届かなかった〝100キロの壁〟を突破。体形は激変したが、体脂肪率は計らないスタンス。