戸辺裕将が31年5カ月の選手生活に終止符 
戸辺裕将が31年5カ月の選手生活に終止符 

元S級の戸辺裕将(52=茨城)が30日、取手F2選抜3Rを最後に、現役を引退した。弟子の岩崎ゆみこ、戸辺香奈実らが見守る中、2着でラストランを終えた。

いとこの戸辺英雄氏(51期、18年引退)に師事し、5度目の受験で競輪学校(現競輪選手養成所)72期にやっと合格した苦労人だ。

ラストランに駆けつけた師匠の英雄氏は、感慨に浸りながらこう語った。

「S級どうこうなんて話じゃなく、学校に受かるかが心配だった。それがS級1班までいけて、S級でも何度か優勝できた。努力すれば何とかなるってことを、あいつは証明したんじゃないかな」

弟子の戸辺香奈実から祝福のレイがかけられた 
弟子の戸辺香奈実から祝福のレイがかけられた 

何とか合格はしたものの、在校成績は0勝。“超”がつくほどの劣等生だった。しかし、地道な努力を重ねて、デビューから4年後にS級へと昇格した。「学校時代の記録会のタイムは散々。皆勤賞なのに土日の外出は禁止。担当教官とマンツーマンで練習させられました。S級に上がった時には、同期から『72期の七不思議』と言われ、ドーピング疑惑までかけられましたよ(笑い)」。

競走スタイルは、茨城の伝統である“昔かたぎのガッツマーカー”を継承した。目標がなければ「先行の番手勝負」を引退間際まで貫いた。「S級に上がって、大宮記念で初めて神山雄一郎さんと連係する機会に恵まれた。東出剛さんも位置がなかったけど、競り覚悟で番手を主張して3着に入れたんです。それが大きな自信になりましたね」。

初めてG1競輪祭に出場した際には、神山からこんな言葉をかけられた。「まさか、お前がここに来るとはな」。持ち前の勝負度胸で、2000年代はS級1班に上がり、ビッグレースでも奮闘した。

40代に入ると、日本競輪選手会の茨城支部長に就任。重責を6年半も務め、取手のG1誘致などに尽力した。その人望は厚く、この日も最後は、現役、OB、関係者ら総勢100人もの大応援団に見送られた。

岩崎ゆみこ(右)は1着で師匠の引退に花を添えた
岩崎ゆみこ(右)は1着で師匠の引退に花を添えた
家族や関係者がそろった集合写真はみな笑顔だった
家族や関係者がそろった集合写真はみな笑顔だった
最後は現役とOBによる胴上げで締めた
最後は現役とOBによる胴上げで締めた
師匠の戸辺英雄(右)も優しく労った
師匠の戸辺英雄(右)も優しく労った

支部長職に就きながら、競走スタイルを変えることはなく、大きなけがは日常茶飯事だった。「失格35回、棄権85回。こんな支部長はいませんよね。ヘルメット代だけで軽く100万円は超えたし、けがの治療費はその20倍以上。だから、お金は残りませんでした」。

今後は、鍼灸(しんきゅう)師の道を目指す。自身の壮絶な治療体験を生かせる職は、まさにけがの功名。きっと患者の気持ちに寄り添った、すてきな先生になるだろう。

31年お疲れさまでした。同い年ながら、戸辺君の生きざまを心から尊敬していました。【松井律】