昨夏の東京オリンピック(五輪)とその半年後の今年2月に行われた北京五輪は、アスリートたちが直面するメンタルヘルス問題に光を当てた。15人制ラグビー女子元日本代表の村上愛梨(32)は、そう感じている現役選手の1人だ。自身もかつて心身が疲労して競技に集中しづらい時期があったからこそ、選手が1人で悩まない環境整備が必要と感じている。今では女子ラグビー選手会の立ち上げを目指し活動を広げる村上には、どんな「チェンジ」があったのか。実体験を交えて話してもらった。

アスリートのメンタルヘルス問題に関心を寄せる15人制ラグビー女子元日本代表の村上愛梨
アスリートのメンタルヘルス問題に関心を寄せる15人制ラグビー女子元日本代表の村上愛梨

SNSの中傷目立った東京、北京五輪。選手出場辞退する例も

村上は「オリンピックによりアスリートのメンタルヘルスの問題が、これまでよりも注目が集まっていると感じました」と現状を受け止める。国同士で競い合う4年に1度の大舞台は、各選手のパフォーマンスに自らの思いを投影しやすい。そこには良い面だけではなく、悪い面も見える。

東京五輪体操女子米国代表のシモーン・バイルスは、「心の健康」を理由に団体決勝など一部の競技の出場を見送った。体操女子日本代表エースとして村上茉愛は個人総合決勝5位で終えると、涙ながらにSNS上でのコメントで傷つけられたことを打ち明けた。卓球混合ダブルス金メダルの水谷隼も自身のツイッターで、「とある国から『○ね、くたばれ、消えろ』とかめっちゃDMくる」など悪質な嫌がらせを受けたと明かした。

東京五輪 演技する米国シモーン・バイルス(21年8月)
東京五輪 演技する米国シモーン・バイルス(21年8月)

北京五輪でも似たようなことが起きた。フィギュアスケート中国代表として出場した米カリフォルニア州ロサンゼルス生まれの朱易(ジュ・イー)は団体戦の女子シングルで転倒して最下位となった。この結果に中国のSNSウェイボーでは「米国のスパイだ」などと批判コメントが殺到し、さらに「朱易が転んだ」「朱易が泣いた」などのハッシュタグが付いた投稿が続出する事態となった。

同一年度に行われた2つの五輪は、厳しい重圧の中で臨むアスリートが想像を超えるストレスを抱えることを浮き彫りにした。それらはアスリート自らの切実な訴えで露見した。一連の動きに村上は「これはあまり話していなかったことですが…」と実業団でバスケットボール選手としてプレーしていた時の苦い記憶を語り始めた。

北京五輪 フィギュアスケート団体、女子フリーで転倒する朱易(22年2月)
北京五輪 フィギュアスケート団体、女子フリーで転倒する朱易(22年2月)

実業団までバスケット選手「レギュラーを奪うため強気な自分見せた」

身長175センチの恵まれた体格の村上は中学入学と同時にバスケットを始め、13年間打ち込んだ。「レギュラーを奪うために必要以上に気を張って、いつも強気な自分を見せていました」。秋田銀行入社1年目のころ、監督との関係で苦しんだ。

理由を明かされないまま、練習でも試合でも一方的に無視された。「なぜ試合に出られないのか分からず、聞きたくても近寄りがたくて怖かった。暴力を振るわれたことはなかったけど、他の選手と違ってずっと無視される。だったら、いっそのこと殴ってほしかったくらい気持ち的にきつかった」。仕事を終えて向かう練習場への道のりは、いつも足取りが重かった。

東京に暮らす父親の介護で帰京することが増えコート外でもストレスがたまったが、チームメートに悩みを打ち明けるのは避けた。弱音を吐いたら、もろい選手だと烙印(らくいん)を押されると思ったからだ。自分の気持ちとは裏腹の振る舞いを続けると、心がボロボロになった。当時のことで覚えているのは「家でずっと泣いていた」ことだけ。「今思えばすぐに辞めたらよかった。自分の辛いと思う環境に身を起き続けるのはとても危険ですから」と回顧する。


初めて観たラグビー。窮地救うきっかけに

窮地に陥る村上を救ってくれたのは、顧客からもらったラグビーの観戦チケットだった。2014年、リーグワン前身のトップリーグ、秋田ノーザンブレッツ対三菱重工相模原の試合に訪れると、勇敢な選手たちが鋭いタックルを浴びせていく光景に目を奪われた。「バチッ、バチッと当たる音が聞こえて、興奮が止みませんでした。あの試合を見なかったら、ずっとバスケをやっていたかもしれません」。人生の転換点になった。

思い立ったら行動に移す性格は、周囲に大きな衝撃を与えた。「何言ってんの?」「できるわけがないじゃん!」と冷ややかな反応を受けると、「7人制の選手として東京オリンピックに出る!」と豪語した。周りの嘲笑は驚嘆とエールに変わった。辞表を提出して東京に戻った15年、女子チームの東京フェニックス(現・東京山九フェニックス)に入団した。


恩師との出会い「心と体のバランスが良いと好パフォーマンス」

15人制への本格転向を決めた翌16年、現在所属する横河武蔵野アルテミ・スターズに加入した。ここで出会った前ヘッドコーチのスティーブ・タイナマン氏が、良き理解者となった。「お父さん」と感じるほど心を許す存在だ。

現役時代にはオーストラリア代表にも名を連ねた指揮官は、入団間もない頃から「君を全て受け入れる」と温かい言葉を掛けてくれた。「(スティーブは)2メートル近い大柄な方なんですけど、ぎゅっと抱きしめてくれて。英語なので細部まで意味は分からなくても、彼の思いが伝わってきました」。

選手との距離感も近く、積極的にコミュニケーションを取る姿が印象に残った。「『調子どう、今日はどんな1日だった?』と声を掛けてくれて、日頃の何気ない会話が安心感を持つことにつながりました。この人の下でならやっていけると、気持ちに余裕が生まれました」

全幅の信頼を寄せて練習に打ち込むと、プレーに自信が芽生えた。19年に15人制女子日本代表に入り、オーストラリア遠征にも参加した。その豊富な運動量と恵まれた体格を武器にプロップ、NO8、ロックと複数のポジションをこなせる万能型に成長した。今では「心と体のバランスが良い時、好パフォーマンスにつながる」と実感する。

村上愛梨(左)が全幅の信頼を寄せる、横河武蔵野アルテミ・スターズ前ヘッドコーチのスティーブ・タイナマン氏
村上愛梨(左)が全幅の信頼を寄せる、横河武蔵野アルテミ・スターズ前ヘッドコーチのスティーブ・タイナマン氏

自分らしくいることの大切さを実感。同性パートナーがいることを公表

恩師の存在は、競技の影響だけではなかった。自分らしく生きることを肯定してくれる感覚を受けたことで、昨春には同性のパートナーがいることをSNSで公表した。

過去の体験を交えて投稿すると反響は、想像以上だった。打ち明けづらいことを公表した勇気をたたえる好意的なコメントが目立つ一方で、匿名で好き勝手に批判的なコメントを寄せる人もいた。

そんな経験から「発信力のあるアスリートだったら絶えずもっと多くの批判を受けてプレーしているのだろうなと感じました」。SNSなどで受ける批判で心を病む選手たちのケアは、競技に安心して打ち込む上で不可欠と考える転機となった。

横河武蔵野アルテミ・スターズでプレーする15人制ラグビー女子元日本代表の村上愛梨(中央)
横河武蔵野アルテミ・スターズでプレーする15人制ラグビー女子元日本代表の村上愛梨(中央)

「どんな時も強くなければいけないというアスリートへの価値観を変える」

村上は今、日本ラグビーフットボール選手会と国立精神・神経医療研究センターが共同で進める「よわいはつよいプロジェクト」の賛同人に名を連ねる。

この取り組みは現役ラグビー男子選手を対象とした調査を実施し、過去に心理的なストレスやうつ、不安障害のなどの疑いを経験した人が少なくないことを明らかにした。同団体ではこの結果を発表したり、講演会を行ったりしている。その狙いは、屈強な肉体から類い希な成績を残すアスリートたちへの見方を変えたいからだ。

村上は「私たちだって同じ人間。悩んだり、落ち込んだりすることだってある」と本音を語り、その上で「どんな時も強くなければいけないというアスリートへの価値観を変えることが第1歩です」と捉える。

自身としては今後、ラグビー女子選手たちの選手会の立ち上げを目指す考えだ。団体の立ち上げにより、選手たちが競技に集中できる環境を整備しようと奮闘する。その原動力は、自分が心から好きな女子ラグビーをメジャースポーツに変えていきたいという思いだ。「居心地の良い環境を作れば、女子ラグビーにもっと興味を持ってもらえる」と信じて止まない。

競技転向してまだ6年足らずだが、背負う物は日増しに大きくなる。それでも本人はその重みをむしろやりがいと捉え、歓迎するような軽快さが言葉の節々から出てくる。「困ったときに選手たちに寄り添える体制作りをしていきたいです」と強い覚悟を示す。32歳の挑戦は始まったばかりだ。【平山連】

横河武蔵野アルテミ・スターズでプレーする15人制ラグビー女子元日本代表の村上愛梨(中央)(19年12月)
横河武蔵野アルテミ・スターズでプレーする15人制ラグビー女子元日本代表の村上愛梨(中央)(19年12月)

◆村上愛梨(むらかみ・あいり)1989(平元)年11月11日、東京都出身。中学時代にバスケットボールを始め、東京・共栄学園-江戸川大-秋田銀行とプレーし、15年にラグビーに転向。19年には15人制女子日本代表メンバーにも名を連ねた。信頼を寄せる指揮官に背中を押され、21年春に同性のパートナーがいることをカミングアウト。競技を続けるかたわらで、選手のメンタルヘルスを改善することで女子ラグビーの普及に貢献しようと選手会の立ち上げに力を注いでいる。