大会前の下馬評通り、10年バンクーバー五輪は日韓の「国民的ヒロイン」によるマッチレースに沸いた。浅田真央(当時19)はショートプログラム(SP)で1度、フリーで2度、1大会に計3度のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を成功させ、後にギネス世界記録に認定される女子史上初の快挙を達成。06年トリノ大会金メダルの荒川静香に続き、日本女子では2大会連続五輪表彰台となる銀メダルを獲得した。

 だがフリーの演技後、悔し涙を流した。報道陣から「価値ある銀メダルでは」と聞かれると、約30秒間も沈黙した。絞り出すように「悔しいです」と話すと涙が止まらなくなった。自己最高の総合205・50点をマークしたが、演技後半の3回転ジャンプのミスなどを悔やんだ。

 その浅田を上回ったのが同い年の金妍児(韓国)。映画「007」の音楽に乗り、SPで首位に立って先行逃げ切りという必勝パターンが五輪でも決まった。最後に両手で拳銃を撃つようなポーズは日本でも話題になった。合計でそれまでの記録を18・53点と大幅に上回る、228・56点の世界歴代最高得点。14歳で初対決した04年12月のジュニアGPファイナルでは、優勝した浅田が2位の金に35・08点と大差をつけた。負けず嫌いの金は、この時の写真をあえてずっと自室の机に飾り、モチベーションに変えて成長を続けた。

 「五輪前年の7月1日までに15歳」という国際スケート連盟の規定により、9月25日生まれの浅田は年齢制限に86日足りず、トリノ五輪出場はならなかった。だが当時から「天才少女」と呼ばれ、同五輪前のフランス杯では、後に金メダリストとなる荒川を破って優勝。「4年後の金メダリスト」の呼び声は高く、バンクーバー大会は満を持して迎える五輪のはずだった。

 だが同五輪シーズンに入り、競技人生初のスランプに陥った。代名詞のトリプルアクセルは失敗の連続。特にSPでは五輪で成功するまで4大会で挑戦し、すべて失敗していた。上位6人によるGPファイナル出場も逃した。五輪出場権のかかる全日本選手権を間近に控えた09年12月上旬には、練習場更衣室で姉の舞に「もう跳べない」と、涙を流して感情を爆発させたこともあった。何度も泣いたが、その度に強くなっていった。

 夢見た初の五輪でも再び涙があふれた。だが「予想していたよりもすごく、悔しさの方がある。この舞台にもう1度帰ってきたい」と、雪辱を誓っていた。

 結局、五輪金メダルの夢は、4年後もかなわなかった。むしろバンクーバー大会が五輪で最高の結果となった。年齢制限に阻まれ、亡き母匡子さんとの別れ、五輪金メダルと縁がなく引退-。悲劇のヒロインの要素がそろうが、ずっと国民的ヒロインのまま。「五輪で金メダルを取りたい」。幼少から変わらない夢を追う純粋な姿が、銀メダルを金メダル以上に輝いて見せるのだろう。

(敬称略)

【高田文太】