2000年のシドニーが私の初めてのオリンピックでした。まず空港に着くとIDを作り、それから選手村に直送し、選手村の中に入る時にウエルカムバッグを受け取ります。そのウエルカムバッグの中には、お土産品とか、地元の子供たちが作ってくれたものとかいろんなものが入っているのですが、そこにコンドームが入っていて驚いたことがあります。

選手同士で顔を見合わせて、無言で下を向いている女子選手や、または「おいおいこれって、そういうことしていいってこと?」とはしゃぐ私のようなふざけた選手などいろいろでした。選手村だとHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に対してのいい啓発の機会でもあるし、何より実用的だよねということが配布の理由だったと記憶しています。当時私は22歳でしたから、なんとも刺激的な体験でした。日本人と同じようにキャピキャピしていたのは韓国の選手でした。

一方で、そこに居合わせた確か中南米の選手だったと思いますが、ガシッとコンドームをつかんで持ち帰っていました。まるでコインを扱うかのように、親指でピーンと空中にはじいてキャッチしながら持ち帰って行く、そのあまりの自然な振る舞いになんだかこちらの方が恥ずかしくなったのを覚えています。

海外によく行かれる方はご存じだと思いますが、バーのトイレにコンドームの自動販売機があります。また、クラブの受付に「自由にお取りください」と置いてあることもありました。あれは日本育ちの人間には少しギョッとする体験ですが、慣れていくと、まあ合理的かなという気になっていきます。

私はここに2つの考え方の違いを見いだします。1つはそもそも性を恥ずかしく隠すべきものではなく、生活にとっては必要なものと捉えているということ。もう1つは、人間はコントロールできないという前提で仕組みを作るということでした。

まずは、性教育の違いが大きいと思います。オランダの小学生か中学生の教科書を見る機会があったのですが、かなり具体的に性行為のことが書かれていてコンドームのことが既にそこに明記されていました。性行為の際の格好そのものも描写されていて、結構驚いたのを覚えています。正しい性知識を持つことで、望まない妊娠を避け、誰もがきちんとNOと言える状況を作り、相手を尊重することを学ぶためと話していました。私は合理的だと思いました。

また、基本的にアングロサクソン系、ラテン系の文化は個人の自由を尊重します。それはそうしてはならないと禁止しても、それに従わない人が一定数いるということです。このような文化圏では「してはならないと言ったってするんだから、最悪の場合を想定して対処する」という考え方が強いと感じています。いじめはよくないという前提には立つのですが、起きることは避けられないのだから、起きる前提で仕組みを作るという考え方です。あるべき理想と現実の運営を切り分けている印象があります。一方、日本は起きるべきではないことは、「起きてはならないから考える必要もない」という考え方をしがちです。いじめは起きるべきではないとするなら、起きないのだから起きる前提で考える必要もないし、準備する必要もないという発想に至ります。この違いは大きいと思います。ですから日本では準備するということは、それを許容したのかということになります。

日本は望まない妊娠と中絶率がかなり高いにもかかわらず、性教育はぼやかしたままできています。その理由の1つに、大人が性に対してうぶすぎるのではないかと思っています。

【為末大】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「為末大学」)