樋口久子(61=富士通)のキャディーバッグには大きく「CHAKO」という文字が刺しゅうされている。「ひさこ」の愛称が「チャコ」になることを、樋口は広く知らしめた。少なくとも私は、彼女の存在からそれを知ったのだ。

樋口「私は小さなころから母親(安代さん)にチャコと呼ばれていました。アメリカへ行く時、久子は発音しにくいので、ニックネームをつけることになったので即座に『チャコ』にした。佐々木(マサ子)さんは『マーボー』にした」

1977年の全米女子プロ選手権は、実力者たちの激戦となった。樋口のマグネティック・スイング(インパクトで磁石のように正確に戻るので命名された)は、その中でも際立っていた。初日は71、2日目は67で飛び出す。3日目は72。

樋口「3日間終わって、首位タイが4人。最終日はパット・ブラドリーが前の組だった。前の週は最終日最終組で自分にプレッシャーをかけて自滅したので、その日は下を向いて歩いた。ボードを見ないようにしたんです。15番でバーディーチャンスがやって来た。グリーンを読んでいると、前方のカメラマンが不意に動いた。で、彼の後方にあったボードが見えてしまった。私の名前が一番上にありました。でも、そこでバーディーが取れた」

16番は第2打をトップ、バンカー手前で弾んで奥にこぼれる。17番の164ヤードは4番アイアンで打った。キャディーはもはや「リラックス、リラックス」を繰り返すばかり…。そして18番パー5。ティーショットが右の林へ。だが、スイングができる場所だった。8番アイアンでバンカー手前に運び、残りは100ヤード。「得意な9番アイアンのハーフショット」でピン横2メートル弱に寄せた。樋口久子という選手は、よほど肝が据わっていたのだ。土壇場のプレーを30年後の今も克明に覚えている。この怜悧(れいり)さが、おそらく史上ただ1人の快挙につながったのだろう。

樋口「18番で3オンして初めてボードを意識的に見ました。2位と3打差があった。3パットしても勝てるんだ…。ああ、もうこれでゴルフやめてもいいな、と思いましたね。よくアメリカへ8年も来たものだ、とも…。これもすべて友達(佐々木マサ子)がいたからできたことなんだ、という思いも湧き上がって来ました」

最終日は69。前週は最終日に80をたたいていたから、うれしさもひとしおだった。1イーグル、17バーディー、8ボギー、1ダブルボギーの通算9アンダーで全米女子プロ選手権制覇! もちろん日本人初めて、その後30年の歳月が流れても、いまだ樋口と肩を並べる日本人のメジャー制覇者は出現していない。

ところで、この快挙を現場で見届けた日本人マスコミは、1人きりだったそうだ。いま米ツアーを転戦する宮里藍の周辺には常に多数の記者、カメラマン。往時との比較はざっと「1対50」というところか? 樋口の偉業が、海外の日本人女子プロに対する注目度を、マスコミの人数分、すなわち「50倍増」させたというのは言い過ぎだろうか。(つづく=敬称略)【編集委員=井関真】

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