今から30年前、全米女子プロ選手権というメジャータイトルを取った唯一の日本人、樋口久子(61=富士通)の思い出話。
樋口「いつもはモーテルに泊まっていたが、あの時はコンドミニアムを借りました。新しいけど、カーテンもテレビもない。部屋が明るくて眠れないから、窓にベニヤ板を立てかけて寝ました」
彼女の快挙を実際に見ていた日本人マスコミはただ1人で、サンケイスポーツの米国在住特派員・牧野泰。優勝した日曜の夜、この牧野も交えて、僚友の佐々木マサ子(63)と3人で食事会を開いた。小規模な祝勝会だ。だが、レストランではワインを出してくれない。サウスカロライナ州は州法で、日曜はアルコール類の販売を禁じていたのだ。
樋口「タイ・牧野が隣の州まで出向いてワインを買ってきてくれた。レストランでコーヒーカップにこっそりとワインを注ぎ、乾杯しました」
今から見れば涙が出るほどささやかな祝勝の宴かもしれない。しかしその分、人間味にはあふれ返っている。1泊何万円もするホテルにチームで泊まって何不自由なく戦いに専念できる現代の世界的なトッププレーヤーと、果たしてどちらがより幸福なのか。
ところで樋口は、間違いなく米ツアー挑戦者の先駆者だ。彼女がいたから岡本綾子が続き、小林浩美、福嶋晃子、そして宮里藍という系譜が生まれた。もし樋口がいなかったら、日本の女子ゴルフは、いや男子ゴルフもどれだけ後ずさりしていたことか。この先駆者は、米ツアーにおけるさまざまなことを日本に持ち帰ってもいる。女子プロのファッションや用具etc…。
樋口「最初はアメリカのプロショップで帽子から靴下までコーディネートされて売っているものを買って持ち帰りました。今、トーナメントでは自分のヤードブックをこしらえて、それを見ながらみんな戦っているでしょう。あれも私たちが持ち帰ったんですよ。練習ラウンドで自分のショットが落ちる位置から歩測して、フロントエッジまでの距離を調べた。米ツアーではみんながしていたんです。日本ではそれまで、残り100ヤードとか150ヤードの木があるじゃない、という程度で大まかで不正確だった」
メジャー制覇で日本人に「やればできる」の自信を植えつけてくれただけではない。樋口は、世界のノウハウを毎年輸入してくれる、さながら夢いっぱいの大型貨物船だったのだ。
むろん彼女の活躍の舞台は海外だけではない。全米女子プロに勝った77年には日本でも女子の試合が24試合行われ、賞金総額も1億2245万円になっている。賞金総額は急角度で上昇線を描き78年には2億、80年には3億を超えた。
樋口「当時の二瓶綾子理事長に『樋口さんがいないと試合がないのよ。日本にいてくれませんか』と言われた。目標のメジャーも取れたし、10年やれば区切りになるし、これからは日本で頑張ろうと思った」
79年を最後に、樋口の米ツアー挑戦は、静かに幕を閉じた。(つづく=敬称略)【編集委員=井関真】

