日本テニス界で戦後初のプロ選手と知られ、俳優・石黒賢の父でもある石黒修(いしぐろ・おさむ)氏が9日、腎盂(じんう)がんのため都内の病院で死去した。80歳だった。全日本選手権に単複混合合わせ9度の優勝を果たし、71年プロ転向。72年日本プロテニス協会を創設し、初代理事長になるなど、日本テニス界の国際化に尽力した。
ダンディーで力強いプレーで、国内はもとより世界でも注目を浴びた。世界に積極的に参戦し、4大大会本戦には12度出場。63年ウィンブルドン、65年全豪で自身最高の3回戦に進んだ。同年全豪では渡辺康二と組んだダブルスで8強入りも果たした。
時代の先駆者でもあった。世界のテニス界は68年にプロとアマチュアの垣根を取り払い、大会に誰でも参加できるオープン化へとかじを切った。しかし、国内は日本体育協会のアマ規定などがあり、波に乗り遅れた。
その中、石黒氏はプロに転向した。関係者によると「これからはプロが主流。日本に広めたい」と話していたという。すでに全盛期は過ぎていたが、現役引退後、プロコーチなどをしていた過去の代表選手を集め、国内でプロ大会を開催。日本プロテニス協会をつくり、受け皿ともなった。
国際的な人材も発掘した。テニス写真家で、国際テニス連盟や日本オリンピック委員会の副会長も務めた川廷栄一氏(故人)を、最初に海外に誘ったのも石黒氏だった。現在の錦織圭らが世界で活躍できるのも、石黒氏がつくった世界への基盤があったから。それがなければ、もっと日本の国際化は遅れていただろう。
◆石黒修(いしぐろ・おさむ)1936年(昭11)8月12日、長崎市生まれ。兵庫・甲南高で54年高校総体シングルス優勝。慶大進学後は57、58年に全日本学生を制した。全日本選手権のシングルスには61、63、65年と3度の優勝。デビス杯では58、60~66年に代表となり、シングルス15勝16敗、ダブルス4勝3敗の成績を残した。66年アジア大会単複金メダル。


