本田宗一郎氏が子どものようにはしゃいでいた。亡くなる3年前の1988年10月30日。鈴鹿サーキットで開催されたF1日本GPで、マクラーレン・ホンダのアイルトン・セナが優勝。チームメートのアラン・プロストを逆転し、初の総合優勝と、2年連続製造者部門総合優勝をもたらした。何より、ホンダが地元日本で初勝利を挙げた歴史的レースだった。

レース後、ホンダブースで行われた祝勝会で、82歳の本田氏は孫のような28歳のセナを思い切り抱き締めた。64年にF1に参戦してから24年。二輪メーカーとしてスタートしたホンダが、まだ軽トラックをつくり始めたころに、日本の技術で四輪の最高峰に挑んだ戦いは、セナという天才と出会い、地元鈴鹿で実を結んだ。本田氏は「やっとF1が自分のものになった」と体を震わせた。取材後、ご機嫌だった本田氏は、記者の求めに応じ、取材ノートに「本田宗一郎」とボールペンで書いてくれた。

セナとプロスト。同じマクラーレン・ホンダに所属するダブルエースの2人が優勝を争った。ポイントではプロストがわずかにリードしていたが、どちらも優勝なら年間王者が決まる戦いだった。ポールポジションを取ったセナが、緊張のあまりスタートミス。7位に後退するハプニングから始まり、終盤は首位を走るプロストとのデッドヒート。2人の戦いを、記者席から見守ったが、途中からノドがからからになった。

終盤、周回遅れの車に引っ掛かりペースダウンしたプロストを、セナが抜き去ったときは、エンジン音を大歓声がかき消すほどの興奮状態だった。セナの驚異の追い上げに、終盤チームは一切無線での指示を出さず、2人の戦いを見守った。優勝したセナは、ウイニングランのときにコックピットの中で号泣。メインスタンド前に戻ってきたときは疲れで立ち上がることができなかった。年間8勝で初の世界チャンピオンになり、セナ時代が幕を開けた。

同じレースで、中嶋悟はセナと同じようにスタートで出遅れ、21位から追い上げ7位でフィニッシュ。長くホンダのF1エンジン開発ドライバーを務め、前年の87年から日本人初のF1フル参戦を果たした功労者。セナやホンダの成功のもう1人の立役者だった。

その中嶋は、予選初日に母親のタマさんを亡くしていた。予選最終日にそのことを自ら明かし、決勝レースも悲しみを胸に完走した。もう1人、2年後の鈴鹿で日本人初の表彰台3位を記録した鈴木亜久里が、このレースでF1デビューを飾った。

ホンダはこの年、セナとプロストで年間16戦中15勝。86年から6年連続で製造者部門優勝と、F1界を席巻し本田氏の夢をかなえた。88年の日本GPは、日本でのF1人気を確立させたレースだった。【桝田朗】(おわり)