奈良の木々は赤く色づきつつあった。稲刈りを終えた田んぼのあぜ道には、熟した柿が実る。どこか遠くから野焼きをする、焦げたにおいが流れていた。

21年11月14日。奈良・天理駅から山側へ、30分ほど歩いたところにある田園に囲まれた親里球技場。全国高校ラグビーの奈良県予選準決勝は、御所実-奈良朱雀の顔合わせになった。

奈良朱雀で顧問を務める山本清悟は、控え選手がいるベンチから少し離れた、観客席の下にある長椅子に腰を下ろして試合を見守った。60歳になり、今年の春に定年退職。嘱託再任用で学校に残り、監督から顧問に肩書が代わった。選手のいるベンチには座らず、これまでより1歩引いていたのは、今年から監督を任せる中瀬古祥成(よしあき、48)への山本なりの配慮だったのかも知れない。

☆泣きじゃくる選手抱きしめ

相手は花園で準優勝4回の強豪である。つい2シーズン前にも全国で決勝に進んでおり、大差で敗れてもおかしくはない。大方の予想を覆したのは、長い年月をかけ、山本が生徒の「心」を鍛えてきたからだろう。

先手を奪ったのは奈良朱雀だった。前半6分、中央付近での攻防。体を張ったプレーで御所実からボールを奪うと、FB植本友輔(3年)に渡り、自陣10メートルライン付近からインゴールまで走りきった。

客席に集まった人たちが沸く。それは歓喜というよりも、驚きのようなどよめきだった。山本も我を忘れたかのように立ち上がり、タッチライン際まで飛び出していた。先制トライを挙げ、前半は5-17で折り返す。後半、続けてトライを許しはしたが、何とか一矢報いようと踏ん張っていた。

終盤にゴール目前まで攻め込みながらも、取り切れずにカウンターにあう。後半ロスタイム。再び相手陣内に深く入り、ゴール前5メートルでのラインアウトになった。

「もう1本や!。お前ら、1年間やってきたことを出してみぃ」

山本の声が響く。あと3メートル、あと1歩。必死にトライを目指す奈良朱雀の選手たちに、ゴールラインは見えていた。しかし…。

最後、ミスからボールを渡し一気に走られた。

直後にノーサイドの笛が響く。

スコアは5-65。相手は1週間後の決勝でも28-5で天理高に勝ち、3大会連続14度目の全国大会出場を決めた。この冬もまた、花園で優勝候補に挙がる。

ただ、点差ほどの差はなかった。これほどの得点差になったのは、経験値やそれに裏付けされた自信とでも言うのだろうか。その差だった。

「ごめんなさい、ごめんなさい」-

泣きながら引き上げてくる選手を、山本は強く、抱きかかえた。

☆胸を張って帰ろうや

「謝らんでええ。お前、何で謝るんや。やれたやないか! 体張って、ええ試合ができたやないか。こんなええもんを、ワシに見せてくれたやないか」

ロッカー室に選手全員が入ったのを見届けると1人、スタジアムの外に出た。片隅でタバコをくゆらせる。しばらくすると、そこに着替えを済ませた部員が集まってきた。この試合で引退する3年生にとっては、最後のミーティング。山本の口調は穏やかだった。

「みんな、頑張ってディフェンスをしていたと思う。あれで最初のトライが生まれたんやで。たった1つのトライやけどな、これが次につながるトライなんやで。試合に出られなかったヤツらも、スタンドの人たちも拍手喝采や。感動したと思う。みんなが必死になっている姿に、感動したんやで。胸を張って帰ろうや。おい、1年と2年、今日のゲームを見て感じたこと。絶対に忘れたらアカンで」

思えば、山本が“恩師”と慕うあの人もそうだった。

▼▼3-53敗戦に泣き虫先生がかけた言葉とは…/会員版に続く(残り1633文字)▼▼

伏見工業ラグビー部の監督だった山口良治は、強豪に敗れた選手にこう声をかけた。

「ようやった。体を張って、前より(失点を)半分に抑えたやないか。お前らは、やればできるんやで」

ドラマ「スクール☆ウォーズ」でも描かれた名場面。1975年5月17日の京都府春季高校総体で、まだ弱小だった伏見工は前年度に全国準優勝した花園高校に0-112で大敗する。山口が「お前ら悔しくないのか! 相手は同じ高校生やないか」と拳を上げたその半年後のことだった。

猛練習を積んだ伏見工は秋に花園高と再戦し、3-53で再び敗れる。また殴られることを覚悟した選手たちにかけたのが、「お前らは、やればできるんやで」という言葉だった。

そして、0-112の大敗から1年後に、伏見工はついに花園高を18-12で破って京都の頂点に立つ。ちょうど、山本が伏見工に入学した春のことだった。

当時のことを、山本はこう振り返っている。

「人間、ひたむきに行動している姿って、格好ええなと思いました。苦しくて泣いたことはあったけれど、うれしくて泣いたことはなかった。美しいなと、純粋に感じていました」

かつて“京都一のワル”と呼ばれたほどの不良だった山本は、60歳を過ぎた今でもなお、恩師である山口の背中を追い続けている。

御所実に敗れた試合後、ひと通りの取材が終わると冗談交じりに漏らした。

「定年になってね、再任用でも仕事の量は前と一緒ですわ。給料はだいぶ減ったけどね。ほんまに、他にいい仕事、ないんかな」

目の前では、この日を最後に部を離れる3年生部員が、後輩たちに語りかけていた。

「来年、俺たちの悔しさを晴らしてくれ! 必ず、御所に勝ってくれよ」

その光景を眺めながら、先ほどの言葉を翻すかのように、山本はこう続けた。

「でもね、こんなええ仕事、他にはないですわ」

監督を受け継いだ中瀬古は、この試合に特別な思いがあった。

御所実には19年間、FWコーチとして在籍した。昨春に自ら願い出て奈良朱雀へ転任となり、今年から監督を任された。前校名の御所工の出身で、今も同校を率いる竹田寛行に誘われたのが、ラグビーを始めたきっかけである。御所実時代、4度の花園準優勝も経験している。恩師である竹田の教えは、指導者としての根幹をなす。

「いい準備をさせることが大事だと。例えば、ディフェンスへの準備。いい守備ができれば、いいアタックにもつながる。それは、ラグビーだけではなく、社会に出てからも生きるんです。いい準備をせな、いい仕事はできませんから」

そして、奈良朱雀を支えてきた山本の背中からも、中瀬古は何かを学ぼうとしている。

☆花を咲かす土になれ

「試合に出ると自分が、自分が、となるじゃないですか。でも、ミーティングで(山本は)こう言うんです。『花になろうとするな。花を咲かす土になれ。みんなで土になって、トライという花を咲かそうやないか』と。それは今後も、伝えていきたいと思います」

伏見工の血筋が流れていた学校に、中瀬古によって御所実の理念が加わったのが、今の奈良朱雀だろう。

確かにあの試合、中瀬古が教え込んだモールからの攻撃に、御所実は手を焼いているように見えた。プロップの山口楓雅主将(3年)は「練習の8割がモールでした。先生(中瀬古)が来てくださってからモールへのこだわりが出て、努力しようという意識と、考える力が成長したと思います」と言う。

「点差ほどの差はない」-。それを実感したのは、監督である中瀬古自身だったのではないだろうか。

思い描く夢が、中瀬古にはある。

「今の奈良は、御所と天理の2強と呼ばれている。それを3強にすることです。県外から生徒を集めるのではなく、奈良の中学生だけが理想です。奈良の子を強くしたいと考えています」

奈良の紅葉は美しくなりつつあった。秋は深まれば県予選で敗れた3年生は引退となる。これまでは、そういう流れだった。

何とか生徒たちに、冬の景色を見せてやりたい。願わくば、ラグビー部員として正月を迎えさせてやりたい。

山本の願いは、中瀬古に受け継がれた。(敬称略)【益子浩一】

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