昭和の大横綱が逝った。大相撲史上最多32回の優勝を誇る元横綱大鵬の納谷幸喜(なや・こうき)氏(日刊スポーツ評論家)が19日午後3時15分、心室頻拍のため東京・新宿区の慶応病院で死去した。72歳だった。1956年(昭31)に初土俵を踏み、61年秋場所の優勝で第48代横綱に昇進。ライバル柏戸とともに「柏鵬時代」を築き、71年5月に引退するまで、歴代最多32回の優勝を重ねた。史上初の一代年寄として後進の指導に当たり、14人の関取を育てた。通夜・告別式の日程は未定。

 初場所7日目、誰より多く、賜杯を抱いた大横綱が死去した。午後3時15分、芳子夫人や大嶽親方(元十両大竜)らにみとられながら、息を引き取った。午後3時15分。病院から約6キロ離れた国技館では、十両取組の真っ最中だった。

 納谷氏は2日前、体調が急変。東京・江東区の自宅での定期検診中、呼吸困難に陥り、慶応病院に入院した。一時は持ち直し、ベッドの上で5日目の取組をテレビで観戦した。19日の朝も朝食を取ったが、異変が起きた。前日は丸一日付き添った芳子夫人に電話し「久しぶりだな」と言い、世話人の友鵬には本場所中にもかかわらず「何で来ないんだ?」と話した。その後、容体が悪化し、帰らぬ人となった。

 2日前の午前9時ごろ、横綱白鵬から見舞いを受けた。自宅に呼び入れ、こう言った。「頑張れよ。稽古しろよ。稽古しかないんだぞ」。ベッドの上から言葉を振り絞ると、白鵬は静かに聞いていたという。これが、現役力士にかけた最後の言葉になった。

 「巨人、大鵬、卵焼き」。63年ごろ、子供たちの好きなものとして流行語になったが、好まなかった。23歳当時、若き横綱として前年名古屋場所から6場所連続優勝を達成。生前「オレは1人でやっている。巨人は、お金でいい選手を集めている。一緒にしてほしくない」と話したこともあった。

 天才に見られることを嫌った。21歳で横綱に昇進。「努力したなんて、誰も言ってくれない。人一倍、10倍くらいはやってきたと思います」。ウクライナ人の父と日本人の母の間に、サハリン(旧樺太)で生まれた。北海道に引き揚げる時、4隻中3隻の船が沈んだ。中学卒業後、働きながら定時制高に通い、巡業中の二所ノ関一行にスカウトされた。

 16歳で入門してからは毎日、テッポウ2000回、四股500~600回を必ずやった。美男子として女性人気も高まり、60年代の相撲界を引っ張った。優勝32回、6連覇2回、全勝優勝8回、45連勝-。巡業では大関陣をつかまえて、研究を重ねた。恵まれた素質に加え、努力の末に数々の大記録を打ち立てた。

 引退後は、初の一代年寄「大鵬」を襲名。巨砲ら14人の関取を育てた。36歳だった77年に脳梗塞で倒れ、左腕などにまひが残った。日本相撲協会の理事などを歴任し、05年5月の定年退職。相撲博物館館長を務めたが、08年11月に体調問題で退任した。その後は、入退院を繰り返していた。

 娘が3人、孫は9人。中でも、三女美絵子さんと元関脇貴闘力の鎌苅忠茂氏(現在は離婚)との間に生まれた4男のうち、次男幸林(たかもり)くん(15)、三男幸之助くん(12)は埼玉栄中相撲部に在籍。将来は角界に入門し、土俵での勇姿を見ることが夢だった。大嶽部屋を11年10月に新装したのも、将来を見据えてのことだった。

 近年、角界の不祥事が起きる度、頭を痛めつつも「みんなで力を合わせて、相撲を盛り上げてほしい」と現場にエールを送り続けた。遺体はこの日午後7時前、病院から大嶽部屋へ移された。霊きゅう車から部屋へは、北の湖理事長(元横綱)、部屋の力士、孫2人らの手で稽古場の上がり座敷に運ばれた。満員札止めとなったこの日、角界の将来を後進に託して、天国へ旅立った。【佐々木一郎】

 ◆納谷幸喜(なや・こうき)1940年(昭15)5月29日、樺太庁(現サハリン)生まれ。56年に弟子屈高を中退して二所ノ関部屋に入門。同年秋場所で初土俵を踏んだ。59年夏場所で新十両となり、大鵬と改名。60年初月場所で新入幕、同年九州場所で初優勝した後、大関に昇進した。61年名古屋、秋場所で連続優勝し、当時史上最年少の21歳3カ月で第48代横綱になった。幕内優勝32回の記録を残して71年に引退し、同年12月に独立して「大鵬部屋」を設立。日本相撲協会理事、教習所長、相撲博物館館長などを歴任、08年に退職。

 ◆心室頻拍(しんしつひんぱく)

 心臓下部の心室の一部で異常な電気刺激が起こり、脈が突然速くなる重度の不整脈。血液を心臓外へ送る心室の力が弱まって血圧が下がり、動悸(どうき)や息切れが激しくなる。心筋梗塞や心筋症などから起こる場合が多いが、心臓病と関連のない「突発性心室頻拍」もある。抗不整脈薬の投与や心臓外科手術などで治療する。