<1997年4月28日付日刊スポーツ紙面から>

 滞空時間6秒。王貞治氏を抜く巨人史上最年少での通算100号アーチが、ゆっくりと右翼席の前列に落ちていった。

 5回無死二塁から出た9号同点2ラン。試合後、清原と一緒にお立ち台に上がった松井が言う。「(試合前の)ミーティングで、今日は絶対に落とせないぞ、と話し合ってました」。MKアベックアーチは、4月23日の中日戦(ナゴヤドーム)以来2度目だが、本拠地東京ドームでは初めて。

 「二人が打てばチームは勝てるんです」。開幕から不調の清原を最も気にかけていたのは松井だった。松井の脳裏には、1994年(平6)の日本シリーズで清原が桑田から西武球場のバックスクリーンに打ち込んだシーンが焼きついていた。「(守っていた)僕の頭の上を越えていきましたから。あのイメージが強いんです」。3回の清原の豪快なホームランは松井が描いていた通りの4番像だった。

 入団1年目の5月2日、場所も同じ東京ドームでヤクルト高津からプロ1号を打った。そこから468試合目での大台到達。日本人では歴代10位の記録だが、松井が目標とする王氏の563試合は抜いた。「特に意識はないですね。まあ早く出て良かった」。こんなに打てる体を授けてくれた両親には「感謝したい」と頭を下げた。ホームランボールはその両親に贈る。

 理想のフォームで打てたこともうれしい。今年のキャンプから標的にしていた内角高めの速球を打った。「高く上がって、フワリフワリ落ちる打球が打ちたかったんです。100号目にそれこそ理想的なスイングで打つことができました」。めったに自分を褒めない男が自画自賛した。よほどうれしかったのだろう。勝利インタビューの際、珍しく「エヘッ、ヘッヘッヘ」と軽い笑いが口をついた。20試合で9本塁打の快ペースに、王氏の日本記録年間55本塁打更新の夢が膨らむ。ひと回りたくましくなった今なら十分可能だ。 【沢田啓太郎】