チャレンジに次ぐチャレンジで、アストロズ松井稼頭央内野手(33)が通算2000安打をマークした。プロ入りしてからスイッチヒッターに挑み、メジャーでは二塁へのコンバートやルーキーリーグなどの試練も乗り越えた。さらに上の技術を追及する挑戦者魂が松井稼頭央を支えている。
アストロズ松井は、野球を辞めようと思ったことが過去に2度あるという。最初は小学3年生。稼頭央少年が、東大阪市のボーイズリーグ若江ジャイアンツに入部した直後だった。「日が暮れるまで声を出すだけ。野球をさせてもらえなかった」。2度目は同チームの中学部に昇格した際だ。見学、球拾い、雑用の毎日に嫌気が差した。一時はバスケットボール部に所属して野球から遠ざかった。それでも大会となれば必要な戦力。部の会長に力ずくで野球に戻された。
「野球部が嫌になっても、練習が厳しいとか、辞めたいと思ったことは1度もありません。誰よりもうまくなりたかったから」。
西武9年1433安打。米国6年目で567本。渡米後は野球文化の違いに戸惑った。適応を急ぐあまり故障にも泣いた。苦しかったはずだ。が、この試練を周囲が同情の言葉で飾ることがもっと寂しかった。
「あいつは才能あるとか、何でアメリカで苦労するのとか。天才って何?
才能って何?
それは周りが思っているだけのことでしょ?
僕は自分のやってきたことは信じてますが、米国での経験でどん底を見たとは思っていません」。
遊撃から二塁へコンバート、メッツからのトレード。日本で1143試合連続出場した鉄人が、米国でルーキーリーグからすべてのマイナー組織を渡った。
「山あり谷ありでいいんじゃないですか。本当は経験をしないほうがいいかもしれないけど、自分ではプラスに思ってる」。
歩んできた野球人生は決して順風満帆なものではなかった。思い返せば、登山のように見晴らしが良くなるほどに息は上がった。
「PLに入学した当時、同じ1年生に投手が8人いた。そのほとんどが中学時代に対戦した強敵ばかり。これは必死にやらないと負けてしまうと思った」。
西武に入団した94年は黄金期。二遊間は辻-田辺が鉄壁の守備を誇り、石毛、清原が脇を固めていた。
「内野手としてプロに入るわけだから、西武が指名したときは『えっ』と思った。いつ1軍に上がれるか想像もできなかった」。
3年目のシーズン前に左打ちに本格挑戦した。体で吸収する練習の連続。はしを持つ手が震え、1日24時間が短く感じられた。
「子供のころに清原さん、桑田さんにあこがれてPLに入学し、プロ野球選手になりたい一心で練習した。西武でも苦しいと思うより早く上手になりたかった。小さいときと一緒です。野球が大好きだから」。
だから今も…。米国でぶつかった壁は、頂上がまだ先だと教えてくれた。
「技術的な問題じゃないの?
技術がないから打てないわけで、打撃は本当に難しい。2000本で終わりじゃない。目標をそこにおいていません。そりゃ、もっと打ちたい」。
うまくなりたい。脆弱(ぜいじゃく)な自分を克服するため、戦いは続く。【山内崇章】