中日谷繁元信兼任監督(44)が、野村克也の持つプロ野球記録3017試合出場に並んだ。ヤクルト15回戦の7回からマスクをかぶった。島根・江の川から大洋(現DeNA)にドラフト1位で入団、27年目で大記録に肩を並べた。節目の出場は1点を争う試合終盤での「投入」だった。勝利を目指して最後までもがき続ける中で生まれたタイ記録。試合後は敗戦への悔しさから笑顔なき会見になった。

 大記録達成者の顔にはとても見えない。谷繁監督に笑顔は一切なかった。「数字よりも今日の試合ということの方がかなり大きい。個人的に3017試合にたどり着いたことは誇りに思う。でも正直、実感はまだないです。今何かと言われると、負けたことの方が大きい」。どんな記録も勝つためにある。まして今や、チームを預かる監督。野球人・谷繁のポリシーを表す感想だった。

 出番は唐突に見えた。2点を追う7回の先頭。谷繁監督は、捕手の桂に代えて代打大島を告げた。泰然としたいつもの「監督」の姿。だが次の瞬間、ベンチを飛び出し、キャッチボールを始めていた。慣れた手つきで防具を着けた。

 代打を決めたとき、次のマスクは自分と瞬時に決めた。兼任監督2年目で一切ブレない。自分を含めた、ベンチ25人の用兵に常に頭を巡らす。プロ27年目、12月で45歳になる。体力の衰えは感じている。監督モードから急に体を動かすのは相当なパワーを要する。それでも勝利を目指して、自分にムチを打つ。

 信念がある。「必要であるからベンチは使う」。これは自分を使い続けてくれた歴代の監督への感謝であり、3017回もグラウンドに立ってきた自負であり、自ら指揮を執る立場になってさらに痛感したものだ。「全員、期待を込めて送り出している」。よく用いるその言葉を自らに向けたとき、初めて27年の足跡の偉大さに気付いた。

 見事に代打策は当たり、1点を返した。7回裏、8回裏もピンチを招きながら必死に投手をリードして失点を食い止めた。だが1点届かなかった。チームは3連敗した。借金は10。ペナントレースに取り残される危機だ。監督、そして選手である限り、優勝というゴールテープを切るまで満足感を得られるとは思っていない。【柏原誠】

 ▼谷繁がヤクルト15回戦(神宮)の7回から出場し、野村(西武)が持つ通算3017試合出場のプロ野球記録に並んだ。初出場は大洋時代の89年4月11日の広島1回戦(横浜)で8回に代打で出場。谷繁は先発出場が2665試合あり、打順別では8番が最多の1847試合。先発出場では野村に劣るものの、捕手としては最多の2960試合に出場している。野村の初出場は南海時代の54年6月17日西鉄戦(代打)で、初出場時の年齢は谷繁が18歳3カ月、野村が18歳11カ月。2人とも10代から出場を続け、10代では谷繁の方が多く出場した。野村は45歳3カ月だった西武時代の80年10月4日ロッテ戦が最後の出場となったが、谷繁は何歳まで出場できるか。なお、イチロー(マーリンズ)は日本で951試合、大リーグで2296試合に出場し、日米通算では3247試合に出場。