プレーバック日刊スポーツ! 過去の10月4日付紙面を振り返ります。1992年の1面(東京版)はヤクルト荒木の4年ぶり白星でした。

 ◇ ◇ ◇

<ヤクルト11-0中日>◇1992年10月3日◇神宮

 「荒木、待ってたぞぉ!」。神宮の杜(もり)にダイスケ・コールが響き渡った。1611日、4年ぶりの白星。4連敗ヤクルトのV生き残りへ望みをつないだ1勝だ。感激のお立ち台に目も潤む。7回2安打ピッチングに池山、古田の援護弾-静かな闘志がナインに火をつけた。さあ、ヤクルトVへ最後の戦いだ。

 ムードを変えられる男がいる。球場全体が一人を中心に動き始めた。荒木だ。試合前、「ヤクルトの先発は荒木」。たったこの一言の場内アナウンスが、流れを変える。球場全体をウォーンというどよめきが包む。4連敗で沈んでいたチームの空気は、もう吹き飛んだ。2時間58分後、球場には荒木コールが巻き起こった。1988年(昭63)5月6日以来、1611日ぶりの白星、荒木がお立ち台にいた。初回から一球ごとに歓声が渦巻く。荒木は「さすがに初回、2回と緊張で力み過ぎていた。久しぶりの先発ですから」という。

 1日、広島でこの日の先発がコーチから告げられていた。2度にわたる右ヒジ手術に、ツイ間板ヘルニア。今季からイースタン戦で投球再開も、球数と投球回数が相手だった。だがこの日は違う。白星との戦いだ。チームの勝敗表、逆転優勝への数字を頭にたたき込んで球場入りした。

 「阪神との直接対決を前に、絶対負けられない試合ということは分かってる。チームの4連敗のドン底の時で……。大事な時に投げさせてもらって感謝してた」。だが、気持ちだけで通用するほどプロは甘くない。最速140キロを、制球と細心の注意でカバーする。「でもね、打たれても(先発に僕を)出した方が悪いという開き直り」の大胆さもこの日の荒木には同居していた。「緊張の2回」を切り抜けると荒木に初めて笑顔が戻った。

 味方打線に「いけるっ」の気持ちを植え付けた瞬間でもあった。2回、5安打で4点。土橋6号、池山30号、笘篠1号、古田30号と9月25日以来の一試合4アーチも飛び出す。荒木も5回には右前打で、先発全員安打と湿りっ放しの打線まで復活させた。

 5回。勝利投手の権利をつかむとコーチから降板を打診されたが、荒木は首を縦に振らなかった。「僕が1回でも多く投げたら(登板過多の)岡林も休ませられるし」。7回、自ら「ここまで」とマウンドを下りたが、打たれたヒットは2本(1本は内野安打)。四球は4個出してもシュートで3併殺と、中日打線に二塁さえ踏ませなかった。長時間試合で疲労のたまっていたナインには実に20試合ぶりの3時間を切るゲームだ。まさに「救世主」。チームを包むすべてを好転させたのだ。

 それでも試合終了を待つラスト2イニングは長かった。「大差で気分的には楽だったけど、終われって祈っていた」。89年のロスでの入院、ヘルニアで自宅のベッドに横たわる自分が頭をめぐったというお立ち台で、目は潤んだ。「最終の阪神連戦、1回でも2回でも投げたい」。逆転Vへ荒木はチームもよみがえらせた。

 4年5カ月ぶりの勝利。スタンドで観戦した母梅子さん(60)は、込み上げてくるものを抑え切れなかった。「点を取ってくれたんで楽に投げられたんだと思います」。この日は長兄隆志さん(34)に、次兄健二さん(32)家族ら親族5人が応援に駆けつけた。梅子さんは傍らのイスの上に、今年8月に亡くなった父和明さん(享年61)の写真を飾っていた。「オヤジが見てくれていたからでしょう」と健二さん。ヒーローインタビューは、近くで見たいという梅子さんの願いがかなって、一塁側のベンチ前で行われた。「緊張したのは初めだけです。あとは安心して見てました」。試合後も、しばらくは目が真っ赤だった。

 ▼1988年(昭63)6月8日の対巨人戦以来、1578日ぶりに先発した荒木が、7回を無失点に抑え勝利投手に。荒木の勝ち星は88年5月6日、甲子園での対阪神戦以来1611日ぶりで、この日が通算29勝目(37敗2S)。中日戦の勝利となると、87年9月28日の22回戦以来になるから5年ぶりの竜退治だ。

※記録や表記は当時のもの