プレーバック日刊スポーツ! 過去の10月18日付紙面を振り返ります。2002年の3面(東京版)はブンブン丸ことヤクルト池山隆寛内野手の現役最後の試合でした。

<ヤクルト1-2広島>◇2002年10月17日◇神宮

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 ブンブン丸らしく、別れを告げた。今季限りで引退するヤクルト池山隆寛内野手(36)が、今季最終戦となった広島戦(神宮)に「3番ショート」でスタメン出場。延長10回フル出場し、8回の第4打席にはセンター左へ二塁打も放った。初回と延長10回2死二塁での最終打席はすべて空振りの3球三振だったが、結局5打席で13度のフルスイングを披露。「ブンブン丸」を4万5000大観衆の目に存分に焼き付け、試合後のセレモニーでは涙で顔をくしゃくしゃにした。

 白い歯が見えている。笑顔じゃない。池山は泣いていた。1点を追う延長10回裏2死二塁。チームメートが最高の舞台を用意してくれた。たった1人のために立ち見も出た、巨人戦より多い4万5000大観衆。代名詞のフルスイングを求め「池山コール」が飛び交う。広島長谷川も真っ向勝負を挑んできた。1球目、空振り。2球目も空振り。打席で崩れ落ちるほど振った。だが、痛めていた右ひざは曲がらない。3球目、それでも152キロの外角直球を強振。空を切り、19年の現役生活に終わりを告げる瞬間になった。ブンブン丸らしかった。「こんな幸せな男はいません」。心の底から言葉が出た。

 4回、ショートの守備で魅せた。新井の痛烈なライナーをジャンプ一番でキャッチ。第4打席、ついに快音が響く。河内の直球をはじき返しライナーで左中間を破る。9月に痛め、水がたまったままの右ひざは上がらない。必死に走った。やっと二塁にたどりつく。これが通算1521本目、最後の安打となった。

 この日が最後、とは自分でも信じられなかった。午前11時30分、いつもと同じ時間に自宅を出た。「不思議な気分だったよ。もうユニホームを着ることがないのに、なんか開幕戦みたいなんだよね。人が集まってくれるような選手になれたことは誇りだよ」。だからこそ感謝の気持ちを忘れない。2軍落ちしてから世話になった裏方陣に「心」をお返しした。2年前にはアキレス腱、腰、今季は右ひざ。痛みとの闘いだった。傷だらけの体をいたわってくれたトレーナー陣へサイン入りの革手袋、バット、Tシャツなどを手渡した。ある1人にはこう言葉を添えた。「心と体のマッサージをありがとう」と。

 2月のキャンプ中に漏らしたことがある。「ファンが望む池山隆寛じゃなくなったらやめるよ」。地鳴りのような大声援、フラッシュの嵐。何かを期待させるスイング。ファンはまだ望んでいる…。試合後のセレモニーで涙ながらに両親、家族の名前を「ありがとう」の言葉をつけて1人ずつ呼んだ。最後に好きな言葉「夢ありがとう」と叫んだ。この日を限りに、外から野球をみる。まっさらな第2の人生のバッターボックスに、入っていった。

 ◆池山隆寛(いけやま・たかひろ)1965年(昭40)12月17日生まれ。兵庫県出身。市尼崎から83年ドラフト2位でヤクルトに入団。遊撃手として活躍、常にフルスイングする姿から「ブンブン丸」の愛称で親しまれた。88年から5年連続30本塁打を記録。ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞1回。通算成績は1784試合、5811打数1521安打、304本塁打、898打点、打率2割6分2厘。家族はゆりか夫人(37)颯人(はやと)君(8)拳聖(けんせい)君(6)愛莉(あいり)ちゃん(5)。

 ◆ゆりか夫人(37)は感慨深げに、夫の最後の勇姿を目に焼き付けた。2年前に池山が引退を口にした際には「それでいいのですか?」と説得したというが「死ぬ思いで頑張ってきたのを見てきましたから。長男も野球選手になりたいと言うようになりました」。夜中の3時すぎまで悩む夫の姿に決意の固さを感じ取った。池山の両親、妹の亜紀代さん(33)もスタンドに駆けつけ、試合後の引退セレモニーではグラウンドで家族の記念撮影を行った。

 ◆かつてのチームメート、阪神広沢も池山の激励に駆けつけた。試合前にクラブハウスで花束を贈り「グラウンドでの思い出より個人的なものの方が多いよ。17日は東京にいることが分かっていたから、ここに来るつもりでした」と、後輩との別れに寂しげだった。また巨人清原からはバラの花束とともに「19年間、お疲れさまでした」というメッセージが届けられた。

 ◆池山の引退試合で、神宮球場周辺は巨人戦並みの混雑ぶりだった。入場を待つファンは正午すぎから、秩父宮ラグビー場付近にまで約500 メートル もの列をつくり、入場者数は4万5000人の満員だった。先着1万人の中から抽選で700人に、池山の手形入り色紙がプレゼントされただけに、お宝グッズ目当てのファンも行列に拍車をかけたようだ。

※記録や表記は当時のもの