阪神赤星憲広外野手(33)が、無念の現役引退を発表した。9日、兵庫・西宮市内のホテルで会見を開いて、ユニホームを脱ぐことを表明した。9月12日横浜戦で負傷した「中心性脊髄(せきずい)損傷」からの回復が難しく、100%のプレーができないと判断。球団の勧告を受け入れて、9年間のプロ野球人生に幕を閉じた。盗塁王5度を誇る球界最高峰のスピードスターが、電撃的にグラウンドを去ることになった。

 引退会見は、衝撃の告白から始まった。「日本全国いろんな病院で先生の話を聞いて、今のまま続けるのは危険だと言われた。今度やったら不随になるかもしれないし、最悪命を落とすかもしれない」。

 初めて首痛で欠場したのは07年4月14日のことだ。16日には頚椎(けいつい)椎間板ヘルニアと診断された。激しいプレーの連続にダメージは蓄積されてきたが、引退に直結したのは9月12日横浜戦だった。中堅の守備でダイブした際、再び首を負傷。「倒れた時は両足が動かなくて倒れたままボールが投げ返されるのを見た。このまま戻らないんじゃないかと思った」。仲間に抱え起こされても、足はふらついたままだった。

 背負ってしまった「中心性脊髄(せきずい)損傷」は、プロ野球のトップ選手として完全回復するには重いハードルだった。効能で有名な秋田県の玉川温泉を訪れ、温泉治療を試みた。日本全国の著名な病院で診断。極秘で渡米し、米国の病院でも判断を仰いだ。しかし医師の言葉が変わることはなかった。

 10月末に初めて沼沢球団本部長が現役引退を勧めた。赤星は「最後の最後まで現役を続けたい、1年でも長く(回復の)様子をみたい」と返事した。ストレートな赤星の思いと、今後の人生まで考慮した球団の決断のせめぎ合いは1カ月続いた。11月28日、南球団社長が直々の説得。回答を保留した赤星だが、12月3日に引退を受け入れた。

 170センチ、66キロの小さな体でプロの世界を生きてきた。「100%の力を毎試合出さないと勝てないと思ってきた。ただどこかしらセーブする自分もいて、プロとして身を引くべきじゃないかと思った。よくグラウンドで死ねたら本望というけれど、本望と思えない自分もいた。恐怖心もあった」と口にした。

 新人だった01年から5年連続盗塁王。381盗塁は球団歴代1位、プロ野球歴代9位。広い守備範囲と高い出塁率で2度のリーグ優勝に貢献し、スピード重視のスタイルがチームカラーのつなぐ野球を加速させた。「僕が入るまでそういうチームではなかった。いい意味で走塁改革できたと思う」と胸を張った。

 仲間には8日に電話で決断を伝えた。ほとんどが絶句し、驚き、「もう1度話し合おう」と翻意さえ促した。ただ事前に遠回しに伝えた金本からは「そうか。そういうふうにしたんだな」と言われた。

 やっとジレンマから解放される。今も腕にしびれが残る。この日の会見では「実感がわかない」と10度以上言った。「野球をやっている時はしたいことを考えなかった。野球以外のこともやってみたいし、機会があれば将来的に経験を生かして(指導者に)と思う。ただ今の状態では無理。体を治したい」。決断を下したレッドスターは静かに羽根を休める。

 [2009年12月10日9時22分

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