あの人の教えがあったからこそ今がある。北海道にゆかりある著名人たちの、転機となった師との出会いや言葉に焦点をあてた「私の恩師」。「全裸にみえるポーズ」でブレーク中の芸人・とにかく明るい安村(33=よしもとクリエイティブ・エージェンシー)は、旭川実高で担任だった山本巧教諭(52)と、野球部監督だった込山久夫氏(68)の顔を思い出す。幼なじみの栗山直人さん(引退)と2000年(平12)に組んだ「アームストロング」を昨年4月に解散。パンイチ(パンツ1丁の略)のピン芸人になってからの躍進につながった恩師の教えを“赤裸々”に明かした。

 3年間担任だった山本先生は、めちゃくちゃ優しいけど、怒るとすごく怖かった。

 工業科でクラスは男だけ。修学旅行のバスでは、もちろん誰もバスガイドさんの説明を聞かずに大騒ぎしてた。そんな時に僕のインスタントカメラが、ほんの数センチの隙間から窓の外に落ちた。「ウッワーー。思い出つまったやつ落としたあ!」って叫んだら「ヤスムラあ! コノヤロおー!」って、一番前の席から怒鳴られた。その後「ガイドさんの話を聞け!」って言うので静かにはなったけど、ガイドさん、メチャメチャつらそうだったなあ。「エー…、次は…」って詰まってた。

 夕食の韓国料理屋では、みんなで「1、2、3…」って順番にタバスコをかけて「100」の人がそれを食べるゲームをした。ところが負けたヤツが、辛すぎて食べられない。そしたら「食べ物をなんだと思ってんだあっ!」って。朝会で態度が悪くて、教室の一番前から一番後ろまで胸ぐらをつかまれたまま引きずられた生徒もいた。

 でも優しい時は優しい。野球部員は試験で赤点を取ると部活に出られない。テストの時、ブラブラみんなの席の横を歩く山本先生が、横に来て小さな声で「安村、それ…違うんじゃないか」「それ、違うと思うけどなあ…先生」ってささやく。「これ…ですか?」って聞き返すと「それだと思うけどなあ…先生」って。

 僕は「高校を出たらお笑い」と決めてたけど、進路担当の先生に「就職しろ」って、何度も呼び出された。そこで山本先生が「NSC(吉本総合芸能学院)のパンフレットを持って来い」というので取り寄せたら、それで進路の先生を説得してくれた。高校を卒業できたのも今、僕がこうしていられるのも先生のおかげ。心から感謝しています。

 野球部の込山監督はまじめに見えるけど、ちょっとドジ。試合にベルトを忘れて、ずっとジャンパーで隠してたり、サインを間違えたりとか。僕は監督の指示をグラウンドの選手に伝える伝令役だったけど、いつも指示はなし。甲子園でも突然「マウンドに行け」というので「暑いなあ」とか「腹減ったなあ」とか伝えて戻るだけだった。

 そういえば、うらみもある。熊本国体の時に、夕食にからしレンコンが大皿で3つも出た。すると監督は一口だけ食べて「あとは全部残さず食べろ」って。おそらく辛いのが嫌いだったんだと思うけど、20人で泣きながら完食した。

 そんな監督だけど、つらい時は今も練習場の「平常心」「和」「粘り」という横断幕と一緒に顔を思い出す。去年コンビを解散した時に1度は引退しようと思ったけど「もう少し粘ってみよう」と思えたのは、野球部と監督のおかげ。

 「安心してください。粘りますから」。【取材・構成 中島洋尚】

 山本教諭 クラスのムードメーカーで、お笑いの道に進む気持ちも強かった。3人兄弟の末っ子でしたし、お母さんにも「1人ぐらい思い切ったことをやらせてもいいんじゃないか」と、吉本入りを勧めた記憶があります。忙しいのに、今でもメールを送れば、すぐに返事が戻ってくる、気持ちの優しい子。普通の社会よりも厳しい世界でやっていけるのか、ずっと心配でした。子どもと奥さんを大事にして、無理せず頑張ってください。

 込山前監督 試合出場はありませんでしたが、ライバルと実力は紙一重でしたし、貴重な一塁手の控えでした。先輩の物まねをするなど、みんなを笑わす場面が多く、試合でもムードを変えられると思い、伝令役にしました。指示は…「笑わせてこい!」だったかな。甲子園では選手も緊張しっぱなしになるので、安村の仕事が勝敗に大きな影響を与えたはず。2勝への貢献度は高い。原点は野球部。あの時の“とにかく明るい”キャラをもっともっとアピールしてほしい。

 ◆とにかく明るい安村(やすむら)本名・安村昇剛(しょうごう)。1982年(昭57)3月15日、旭川市生まれ。旭川実高野球部では外野手、投手、一塁手で、3年夏(99年)の甲子園は背番号13、伝令として3回戦進出に貢献した。東京NSC6期生。幼なじみの栗山さんと「シベリアンハスキー」「アームストロング」として活動し、昨年4月に解散、ピン芸人となった。2月の「R-1ぐらんぷり」決勝トーナメント進出。全国丼連盟会長。家族は妻と長女。177センチ、90キロ。