歌舞伎俳優の片岡仁左衛門(71)が17日、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、このほど大阪市内で記者会見を開いた。

 「本当にありがたく、たいへん恐ろしい気持ちです。今までは仁左衛門としての舞台がいいか悪いかを考えてやってきましたが、文化財に認定されますと、悪い…ではすまない。人間国宝とは誰がお名付けになったのか(笑い)。国の宝と言われると、ちょっと恥ずかしいですね」

 涼しい目元をほころばせつつ、感想を口にした。

 仁左衛門は5歳だった49年、大阪・中座で「夏祭浪花鑑」に、本名の「片岡孝夫」を名乗って初舞台。人間国宝だった13代片岡仁左衛門を父に持ち、兄は5代目片岡我當、2代目片岡秀太郎。三男だったため、98年に仁左衛門を襲名するまで、本名のまま半世紀近くも活動してきた。

 歌舞伎界では異例だったが「三男ですから、そうそう名前がなかった。でも、孝夫の方が、歌舞伎らしくないので、親しみやすかったかもしれませんね」と振り返る。

 仁左衛門は多くのテレビ、映画でも活躍してきた。時代劇、現代劇を問わずに名演を見せ、CMでも人気を得た。テレビでの役者業と、舞台での歌舞伎活動を並行させ、成功させた先駆的存在でもある。後に故坂東三津五郎さん、中村獅童、片岡愛之助が続いた。

 一方で「女殺油地獄」の与兵衛、「伊賀越道中双六」の呉服屋十兵衛、「勧進帳」の弁慶など、スラリとした立ち姿、比類なきさわやかな二枚目ぶりと、迫力のある芝居から、歌舞伎での当たり役も次々に出した。父が得意とした「菅原伝授手習鑑」の菅丞相役も手中に収め、上方歌舞伎復興へ尽力を続けてきた。

 「そう思いますと、子どものころは、友だちが学校に行き、放課後に遊んでいるのに、なぜ自分はけいこをしなきゃいけないのか。学校にも行けず、公演で1カ月休むこともしょっちゅうあったので、つらかった。役者をやめたいと何度も思いましたが、徹底して仕込んでいただいたことを、父に感謝しています」

 その父と同じ人間国宝までたどり着いた。

 「お前みたいなので認定されるのか、と、言っているかもしれません」と笑った。自身は、いまだ芝居への探求心は尽きない。

 「芝居に終わりはない。役作りにしても、歌舞伎には型がありますが、その型はなぜできたのかを考えて演じないといけない。なぜここで右を向くのか、それは理由がある。そこを考えない若い人(役者)が増えている」と、将来の上方歌舞伎へ危機感を口にした。

 最近では、兄秀太郎の養子である愛之助のテレビ、歌舞伎双方での活躍が目覚ましいが、若手俳優には厳しい注文も出した。

 「若い人たちには人気、奇策に走らず、とにかく地道な修業を続けていただきたい。劇場側も無策の客寄せに走らないでほしい」

 自身は5歳で初舞台を踏み、小学、中学と、同級生が勉学やスポーツに汗を流し、友情を深める姿をうらやましく思いつつ、連日けいこに励み、下地を作り上げた自負がある。それゆえ、現代の若手、中堅役者への歯がゆい思いは強い。

 また、仁左衛門といえば、孝夫時代から「色男」の代名詞的存在だが、実は「色男と呼ばれるのは一番嫌いなんです。敵役と言われる方が好き」と、内面には骨太の反骨心を備える。

 20代のころから、坂東玉三郎と「孝玉コンビ」として人気を得てきたが「当時の写真を見たら、目がへこんでいるし、なんでそれが美男と言われたのか」。その上で「美男、美女というものは、決して器量じゃないと、つくづく思いました」と語った。

 あくまでも、内面に裏打ちされた美しさ、確かな下地の上にある芸があってこその「色男」「二枚目」。愛之助ら、次世代俳優にとっては“金言”となるような本音も吐露していた。