腎不全のため、68歳で亡くなった元吉本新喜劇の看板座長、木村進(きむら・すすむ)さんの通夜が21日、大阪市都島区の「コスモール都島」で行われた。

式に先立ち、喪主の妹、木村龍子(きむら・たつこ)さん(67)が取材に応じ、亡くなる直前まで、盟友の間寛平(69)や新喜劇の後輩女優楠本見江子(72)らの見舞いを受けていたことを明かした。

「女好きでしたからね、最後にみんなに会えてよかったと思います」。気丈に振る舞う龍子さんは、涙の中にも笑みを浮かべ振り返った。

施設に入居していた木村さんは、会話もできていたが、14日になると職員の呼びかけに反応しなくなったという。施設からの連絡を受けた龍子さんが駆けつけると、反応がほぼなく「頭が痛い」と繰り返し訴えるだけだった。

救急車で病院へ行き、そのまま入院。医師から「覚悟をしてください」と告げられた。18日には寛平が夫人とともに見舞いに訪れたが、やはり反応はなし。以前にも危険な状態に陥ったことがあり、その際は寛平の見舞いを受け「おすし十何貫も食べるほど元気になった」そうだが、今回は回復せず。翌19日に楠本らの見舞いを受け、そのときは「息をしていたが、帰られた途端に息をしなくなった」といい、その後、息を引き取ったという。

新喜劇きっての二枚目でならした木村さんは、女性人気も高く、実際に女性にも相当にもてた。楠本さんから「進兄さん、今でも男前やね」と声をかけられ、これが最後の見舞いになった。龍子さんは「本当に女好きだったから、兄貴らしい」と笑みもこぼした。

木村さんは88年に「3代目博多淡海」襲名興行の最終地だった故郷の福岡で倒れ、脳内出血で左半身にまひが残り、新喜劇を退団した。

龍子さんによると「何度も死のうとした」が、寛平の励まし、阪神大震災で命を救われた思いから、車椅子ながらに「木村進劇団」を立ち上げ、再起していた。だがその後、11年4月に同居していた母を先に亡くし、気落ちすることが増えた。

龍子さんによると、数年前から自宅を出て、大阪市内の施設に入居。それでも、たびたび寛平らの見舞いを受けた。寛平がくるたびに、木村さんは「こいつは俺が育てたんや」と言い、寛平もうれしそうに「そうや」。龍子さんによると、劇団の跡取り息子として甘やかされ、子供のころからわがままな面もあったが、それが無邪気な性格にもつながった。寛平とはとりわけ、ウマが合い、その固い絆が、木村さんの闘病生活の支えだった。

木村さんは、新喜劇時代、おばあちゃん役を得意とし、短髪だと髪の毛がかつらが出ることを嫌い、つねに長髪だった。退団後も長髪を貫き、龍子さんは「最後まで髪の毛を切らせてくれなかった」。亡くなる直前まで、舞台への思いを口にし「おれはいつ仕事が来てもええように、言われたらすぐ出るつもりや」が口癖だった。

龍子さんは「天国で、山田スミ子さんとか、昔の仲間に会って、また舞台をやってると思う」と話していた。