1992年(平4)に亡くなった歌手尾崎豊さん(享年26)が残していた2通の「遺書」が、明日10日発売の月刊文芸春秋に全文掲載されることが8日、分かった。尾崎さんの死については、没後2年の94年に他殺説が浮上。自殺説と真っ向から衝突し、裁判にまで発展するなど社会的に大きな関心事となった。「尾崎豊の遺書『さようなら

 私は夢見ます』」を執筆したジャーナリストの加賀孝英氏は94年当時に入手していた「遺書」と、尾崎さんと繁美夫人との間のやり取りを、没後20年を前に明かした。

 「遺書」は、92年4月25日、死の間際まで持ち歩いたセカンドバッグに入れてあったという。それには、意識し続け、現実のものとして受け止めた「死」に向かう覚悟がしたためられていた。

 先立つ不幸をお許し下さい。

 先日からずっと死にたいと思っていました。

 死ぬ前に誰かに何故死を選んだのか話そうと思ったのですが、

 そんなことが出来るくらいなら死を選んだりしません。

 (中略)

 さようなら

 私は夢見ます。

 死の1カ月後、もう1通の遺書が見つかっていた。尾崎さんの母絹枝さんの遺影の脇に置かれていた。繁美夫人と1人息子裕哉さんへの愛情を示し、惜別とも取れる言葉が記されていた。

 私はただあなたを愛する名の神でありつづける。

 皆の言うことをよく聞いて共に幸せになって下さい。

 加賀氏は94年に繁美夫人を繰り返して取材し、死の20日前に睡眠薬を飲み夫婦そろって死のうとした経緯などを聞いていた。尾崎さんの遺体から致死量の2・64倍の覚せい剤が検出され、それが「他殺説」の根拠とされたが、加賀氏は同誌で反論。当時の尾崎さんは胃腸も機能しない極限状態で、覚せい剤を体内に吸収できない状況だったことも、医師への取材でも検証したとし、「自殺」と断言した。

 加賀氏はこの遺書2通を94年に入手していたが、繁美夫人から「息子の裕哉が父の死を理解するまで遺書は公表しないでほしい」と頼まれていた。そして17年後の今、公開に踏み切った。理由は、21歳になった裕哉さんが昨年10月にCMで父が残した名曲「I

 LOVE

 YOU」を歌い、父と同じアーティストの道を選んだからだという。

 加賀氏

 尾崎は自らを破滅に導かなければ(曲を)書けなかったと思う。身を削らなければ、ああいう詞や曲は出来ない。曲を作るのがどれだけ大変か…。それが子煩悩だった尾崎が裕哉君に伝えたかったことだと思う。裕哉君には父の生きざまを知ってほしいし、ちゃんと受け止めてくれる。エールを込めました。

 尾崎さんの没後20年を来年に控える中で表に出る今回の原稿は、加賀氏が取材した3分の1程度にすぎないという。

 ◆尾崎豊さんの死

 92年4月25日朝、東京都足立区内の住宅街で全裸で傷だらけになった尾崎さんが発見された。同日午後0時6分に死亡。死因は極度の飲酒による肺水腫とされた。しかし、2年後の94年に尾崎さんの体内から検出された覚せい剤について触れた、司法解剖の結果が記された「死体検案書」のコピーが外部に流出し、他殺説が浮上。尾崎さんの実父健一さん、実兄康さんやファンが再捜査を求め、10万人嘆願署名活動に発展した。身の危険を感じた繁美さんは長男裕哉さんと渡米した。