俳優三国連太郎(みくに・れんたろう)さん(本名・佐藤政雄)が14日午前9時18分、急性呼吸不全のため、東京・稲城市の病院で死去した。90歳。役作りに徹する「名優」と知られ、鬼気迫る演技で「怪優」とも呼ばれたが、「釣りバカ日誌」シリーズでは、釣りに魅せられる社長スーさんをコミカルに演じ、代表作の1つにした。葬儀は密葬で執り行われ、後日お別れの会が開かれる。喪主は俳優の長男・佐藤浩市(さとう・こういち)。

 複数の関係者によると、三国さんはここ数年、入退院を繰り返し、昨春からは継続して入院していたという。長い病院暮らしで背中を痛めて歩行困難に。リハビリの日々だったというが、妻友子さんによると、亡くなる前日の13日までは元気で、夕食も十分にとったという。しかし、同日深夜から朝方にかけ、2度嘔吐(おうと)して体温と血圧が低下。友子さんが病院に駆け付けた直後に息を引き取った。亡くなる2日前、ふいに「港に行かなくちゃ。船が出てしまう」と口走ったという。

 佐藤も最期をみとれなかった。一夜明けたこの日、都内で取材に応じ、「(朝方の)嘔吐から2時間ほどで亡くなり、あまり苦しまなかったようです」と父の最期を説明した。「死に顔は凜(りん)としていて威厳があって、不思議な感慨がありました」。三国さんは日ごろから「戒名はいらない。散骨してほしい。誰にも知らせず密葬で」と話していたという。

 遺作は昨年公開された映画「わが母の記」で、主人公の父親を演じた。物語前半で亡くなるが、寝たままの演技でも、三国さんの存在感は際立っていた。

 主役でも脇役でも、徹底した役作りをすることで知られ、数々の行動は「三国伝説」とも呼ばれた。57年「異母兄弟」出演の際には、老け顔に見せるため、上の前歯すべてを抜いてしまったこともある。

 10代で工員や船員、映画館の看板描きなどさまざまな職業を経験した。中国で終戦を迎え、抑留生活後に22歳で帰国。戦後、闇商売に手を出したこともあるという。俳優になったきっかけは、松竹のオーディション。木下恵介監督の目に留まり重要な役をつかんだ。三国連太郎というのは、デビュー作「善魔」で演じた新聞記者の役名。苦労を重ねたからこそチャンスには貪欲で、芝居への執念につながった。

 素顔は照れ屋で不器用だった。「釣りバカ日誌」シリーズでは、無口な三国さんに代わって共演の西田敏行が話すこともあった。私生活では4度の結婚。結婚には至らなかったが、太地喜和子さんとの熱愛、同居が話題になった。結婚生活や恋愛関係の破綻は、役者道を追求するあまり、家庭や恋人を顧みられなくなったからともいわれる。

 その生きざまは闘病中も変わらなかった。友子さんによると、病室の机の引き出しから「過ぎた日は再び迎えられない。演技もまったく同じである」など、演技論を書いたメモが見つかったという。2~3年前のもので、昨年5月ごろ、病状が悪化した時に書いた「ついに終末の刻(とき)に逐(お)い詰められたようだ。どう闘って生きるか?

 連」という走り書きも残されていたという。

 佐藤によると、三国さんは「三国連太郎のまま逝く」と言っていた。「役者・三国連太郎」を貫き通し、闘い続けた人生だった。<三国さん伝説>

 ◆「異母兄弟」(57年)

 一回り上の田中絹代と激しいラブシーンがあった。年齢差の違和感を感じさせないよう上の歯を抜いて老け顔になった。友人の西村晃さんに「おまえは本当にバカじゃねえか。抜いちゃったらもう生えてこないぞ」と言われたが、「どうせいつか抜け落ちてしまうもの。それなら、ちょっと早くてもいいやって」と決断。

 ◆「夜の鼓」(58年)

 有馬稲子を殴るシーンで、本当に殴って失神させた。有馬から「芝居に見えてしまうから、本当に殴って」と言われたためだが、役者バカと言われた。

 ◆「宮本武蔵」(61年)

 沢庵和尚を演じ、一晩中部屋の中で待つ場面で、内田吐夢監督に相談なく、小便に行く場面を付け加え、監督を激怒させた。

 ◆「狼と豚と人間」(64年)

 深作欣二監督と口論になり、スタッフを上野駅前で一日中待たせた。

 06年8月13日付の日刊スポーツ芸能面「日曜日のヒーロー」で、これらの伝説について聞かれた三国さんは「伝説というのはたいてい虚飾にまみれておりますが、今、尋ねられたものは珍しく事実ばかりです」と笑った。