「新地町壊滅のもよう」。11年3月12日。カーラジオから流れたそんな一報を頼りに新地町に向かった。海から約1・5キロ離れた国道6号線まで、家やがれきが津波で流されてきていた。あれから6年。水田はきれいに刈り取られていた。

 防潮堤が完成し、流された新地駅は新しい場所に新設、再開した。6年前の取材で自転車を貸してくれた菅野恵美さん(53)は「大勢の犠牲者が出た釣師浜の人たちも山の方へ集団移転した。防潮堤で海は見えないけど、安心感はある」と評価する。「働く場所が少ないのが課題」という。

 海沿いに南へ。相馬市まで移動した。松の生えた天然の砂嘴(さし)が、太平洋と2本の川の河口を隔て、元禄時代から名勝として知られた「松川浦」。巨大な津波は、砂嘴を突き破り、一帯を襲った。6年で砂嘴はつながったが、かつて海に掛かる橋のようだった砂嘴の道路はいまだに工事中。白い防潮堤もかつての風情を失わせている。

 松川浦の旅館「かんのや」の管野拓雄社長(58)を訪ねた。魚もマツバガニも、松川浦名物の青のりも放射性物質は検出されなくなった。それでも風評被害は続く。さらに「景色も変わった。植樹もまだまだ。一般の観光客はほとんどいません」。いまだに、日常は戻ってきていない。

 国道より海側の「浜街道」を南下する。水田には大規模太陽光発電所(メガソーラー)が増え、白い防潮堤も続いている。昨年7月に避難指示解除となった南相馬市小高区では防潮堤が建設中だった。周囲の水田は、雑草や木が刈り取られていたが、あぜと田の境界がぼやけており、原野に戻りつつあった状況を物語る。このあたりから、道路脇に「獣と衝突」の注意看板が目立ち出す。人に、イノシシが取って代わっていたからだ。

 春に避難解除となる浪江町請戸地区。請戸漁港には先月、26隻の漁船が戻った。数キロ南には東京電力福島第1原発5、6号機の立地町の双葉町が広がる。双葉町の北東部の中野地区には、津波でつぶれた車やがれきがまだ残る。原発に近づくほど、復旧の時計は遅れている。

 1軒の家の前で、地域の元消防団分団長だった高倉伊助さん(61)が町職員の調査に立ち会っていた。高倉さんは百メートルほど先を指さし「そのガードレールの先が、中間貯蔵施設予定地だ」と教えてくれた。ガードレールの先の森の上に、第1原発の排気筒がのぞく。地区に戻る人はいない。

 高倉さんも須賀川市に新たに自宅をもとめた。「この地区は、復興作業や見学の拠点にするしかない。元通りになんないのは悔しいし、寂しい。それはあっけど、前に進むしかねえべした」。【清水優】