【マナウス(ブラジル)2日(日本時間3日)=木下淳】FW久保裕也(22)のリオデジャネイロ五輪出場が消滅した。所属するスイス1部ヤングボーイズから派遣を拒否されていた問題で、日本協会が招集を断念した。2日正午(同3日午前1時)までに霜田正浩技術委員(49)が交渉をまとめられず、午後8時(同3日午前9時)に発表。48年ぶりのメダル獲得の鍵を握るはずだったエースを失った。代わってバックアップメンバーのFW鈴木武蔵(新潟)を登録し、バックアップにオナイウ阿道(千葉)を追加した。

 託された18人のリストから久保の名が消えた。しかも初戦の49時間前だ。前代未聞の事態に霜田氏が練習前に取材対応。「苦渋の決断ですが、断念することになりました。現場に申し訳ない」と招集できなかったことを謝った。先月27日にヤングボーイズが公式サイトで「派遣拒否」を一方的に表明。一時は軟化もしたものの、騒動は最悪の結末に行き着いた。

 日本側は4日の1次リーグ初戦ナイジェリア戦の合流を諦め、7日の第2戦コロンビア戦から、と譲歩した。それでも無理だった。3日の欧州CL予選3回戦第2戦まで出場した後、翌4日に久保をブラジルに向かわせる確約を求めていたが、ピッケル・スポーツディレクターから霜田氏に「手放す確約はできない」と電話で返答があった。3日の試合後まで待てば「初戦の24時間前までに完了」と定められる選手変更手続きが間に合わない。17人で大会に入るリスクを回避するため交渉から手を引いた。

 今回の五輪は23歳以下にも招集の拘束力がなく、犠牲になった。チームの痛手も計り知れない。久保は、まだ高校3年だった12年に当時ザッケローニ監督のA代表に抜てき。リオ世代の海外組1号として19歳で海を渡った。アジア最終予選も唯一、全6試合に出場してチーム最多3得点。代えの利かないエースだった。

 手倉森監督は久保とオーバーエージ枠の興梠のコンビを五輪仕様の攻撃の軸と考え、久保も「楽しみですね」と連係を熱望。オールラウンダーの2人が前線で速攻を滑らかにして一瞬のスキを突くプランだったが、再考を余儀なくされる。

 悲運の久保は「オフ期間も万全な状態を目指して練習に取り組んでいたので当然、残念な気持ち、今は少し整理のつかない部分もあります」と公式サイトでコメント。右膝手術を回避したのも五輪のため。あこがれのセリエA移籍を五輪で活躍して勝ち取る夢も散った。最高の状態なのに「仲間の活躍と金メダルの獲得を強く強く願いたい」と託す側に回された。

 手倉森監督も「エースと思いすぎ(招集に)こだわりすぎたから縁がなくなったのか」と悔しがった。初戦ナイジェリア戦へ、まさかの喪失感にチームは包まれている。