<第91回箱根駅伝>◇3日◇復路◇箱根-東京(5区間109・6キロ)

 「伝説の営業マン」が、大仕事をやり遂げた。中国電力でサラリーマンだった青学大の原晋監督(47)は、営業畑で成功したビジネス手法を持ち込み、合理的な指導で選手を束ねた。その半面、熱く夢を語り、選手のやる気を奮い立たせるなど理論と情熱の両輪で、箱根と無縁だったチームをわずか就任11年目で記録ずくめの完全優勝へ導いた。

 歓喜の初優勝に、湿っぽさなどみじんもなかった。胴上げで3度宙に舞った原監督も「もっと痩せないといかんな」。81キロの体を揺らし、満面の笑みだった。目標を設定し、それをクリアすることで優勝に近づく。15年の箱根。ついに、その機が熟した。

 04年に監督に就任するまで中国電力で10年間、サラリーマン生活を送っていた。自称「伝説の営業マン」。企業用で約1000万円もする省エネ空調機を売りに売った。最後の3年間は新規事業を立ち上げた。社員5人で始めた部署は成長し、現在は120人もの大所帯になっているという。

 サラリーマン時代に学んだのが、目標をクリアする喜び。選手にもA4サイズの用紙2枚に、目標達成率と今後の目標を理由とともに書かせた。昨年まで不定期だった目標管理シートを、今季から毎月提出させた。「選手が自立し、成長できた」。目標が明確になり、自己管理もできてケガも減った。

 その半面、目標を達成するための夢を選手に熱く語った。「今の選手は理論で言わないと納得しない。ただ、理論だけでは男は動かない。お前のために、というのが必要」。いつも「男たるもの、何かひとつやり遂げよう」と、選手が失敗しても勇気づけた。

 就任当時「陸上部を応援してほしい」と学生に声を掛けても、集まったのは3人だけ。陸上部員も茶髪に、休むのは当たり前だった。06年の予選会では16位と惨敗し、廃部の危機にも瀕(ひん)した。退部する学生もいて「あの頃がどん底だった」。

 広島・世羅高3年で主将として全国高校駅伝に準優勝した。箱根駅伝には縁のない中京大に進学し、卒業後は中国電力に期待されて入社。だが右足首を捻挫するなど芽が出ず「5年で終わった」。その屈辱が常にある。「原という男の存在価値を認めてもらいたかった」。その反骨で、最悪の危機を乗り越えた。

 青学大には自らプレゼンして、監督に就任した。その時のうたい文句が「5年で出場、7年でシード、10年で優勝争い」。その言葉どおり、目標をクリアした卓越したビジネス感覚。加えて「卒業生と一緒に酒を飲んで夢を語るのが趣味」という情熱が、新たな箱根の時代を築き上げる。【吉松忠弘】

 ◆原晋(はら・すすむ)1967年(昭42)3月8日、広島県三原市生まれ。世羅高-中京大。大学3年のインカレ5000メートル3位。89年中国電力陸上部創設とともに入社したが、95年に引退。04年4月に青学大陸上部監督に就任。09年大会で33年ぶりに箱根駅伝出場に導いた。家族は妻美穂さん(47)。子どもはおらず、夫婦で選手と同じ寮に住み込み「どんな彼女がいるかも知っている」と、選手たちを息子のようにかわいがる。176センチ、81キロ。