プレーバック日刊スポーツ! 過去の7月29日付紙面を振り返ります。1996年の1面(東京版)は、アトランタ五輪女子マラソン、有森裕子の銅メダル獲得でした。

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<アトランタ五輪:女子マラソン>◇28日◇アトランタ・オリンピックスタジアム-オグレソープ大前折り返し42・195キロ◇出場86人、完走65人◇曇り、気温23度、湿度61%(午前7時5分スタート時)

 【アトランタ支局】「女子マラソン最強トリオ」の有森裕子(29=リクルート)が、執念の銅メダルを獲得した。33キロすぎから3番目を独走。2時間28分39秒の自己2番目の好タイムで、バルセロナ五輪銀メダルに続く日本女子陸上界初の連続メダル獲得を果たした。真木和(27=ワコール)は中盤から右足付け根の痛みに悩まされ12位。浅利純子(26=ダイハツ)は、左足の裏のマメがつぶれ17位に終わった。ファツマ・ロバ(25=エチオピア)が2時間26分5秒で優勝した。

◆アトランタ五輪女子マラソン◆

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(1)ロバ  (エチオピア)2時間26分5秒

(2)エゴロワ(ロシア)  2時間28分5秒

(3)有森裕子(リクルート)2時間28分39秒

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(12)真木和 (ワコール)2時間32分35秒

(17)浅利純子(ダイハツ)2時間34分31秒

 白いゴールラインを越えるとすぐ、有森は立ち止まった。歓声に手を上げる力も残っていなかった。42・195キロ。持てる力はすべて出し尽くした。だらりと下げた両こぶしを小さく握った。精いっぱいのガッツポーズだった。

 バルセロナの銀メダルより、順位はひとつ下がった。でも、感慨はずっと深かった。「バルセロナの時は走り回って、喜びを味わう余裕もなかった。今度は、ゆっくりと感激をかみ締めたかった」。日本人応援団が陣取ったスタンドに向かって、ゆっくりと歩き始めた。「自分が、これまでで一番輝いていたと思いますから」。有森は、泣きながら笑っていた。

 30キロすぎの下りでスパートした。単独2位に上がった。金メダルを頭によぎらせながら、第2集団から飛び出した。だが33キロすぎ、後方からエゴロワが並びかけてきた。バルセロナ五輪の終盤、モンジュイックの丘で、すさまじいデッドヒートを演じたライバルだ。

 「4年前と同じだ」と思った。うれしかった。五輪を実感できた。しかし、体はもう限界だった。再びエゴロワと競り合う力は、残っていなかった。アップダウンの連続に足がしびれた。簡単に抜かれた。順位のことは考えなかった。ゴールだけを頭に描いて走った。何度も「もうつぶれる」と思いながら、必死に耐えて銅メダルをつかみ取った。

 レース前、父茂夫さんに言い残した。「ゴールする時の私の顔を見てほしい。今まで努力してきたすべての結果だから」と。その通りに、輝きまくってゴールに戻ってきた。娘のマラソン人生の集大成を、しっかりと脳裏に焼き付けた父は言った。「本当にありがとう、と言いたい。最後ですからね」。

 有森が「初めて自分で自分を褒めたいんです」と、心の底から感激に浸っている時、後輩二人は、まだ苦闘を続けていた。真木は、38キロ付近で「やめようか」と思いながら走っていた。中盤から右足の付け根が痛み始めた。30キロを過ぎて痛みは増した。しかし、沿道に日の丸を発見した。「頑張れ」という父の声が聞こえた。「とにかく一つ一つ前にいこう」と心に決めてゴールを目指した。

 マラソンの厳しさを、初めて知った。右足付け根の痛みは、春先から抱えていた。練習では、何とかごまかせた。今度も「何とかなる」つもりだったが、五輪の大舞台で、そんな甘い考えは通用しなかった。ゴール直後、藤田信之監督に「もう少しついていかんと、勝負できへん」と一喝された。涙があふれたその時「もう1回、マラソンを走りたい」と心底思った。

 真木から2分遅れでゴールに入ってきたのは浅利だった。歩くことも、話すこともできなかった。鈴木従道監督の体にグッタリともたれかかった。そのまま、医務室へ担ぎ込まれた。左足のシューズの下が真っ赤に染まっていた。5キロ地点でマメがつぶれ、残り37キロは痛みとの闘いだった。

 最も金メダルに近いといわれながら、一番最初に集団から脱落した。「いつもソックスをはくのに、今回は素足のままで走った」と、鈴木監督が言った。意識を回復した浅利は、悔し涙を流した。「体調も天候も最高だった。なんでこの日にこんなことが……。でも、4年間、この日のために練習してきたんです。やめる(途中棄権)わけにはいきませんでした」。

 明暗は、くっきりと分かれた。だが「最強のメダルトリオ」として日本の期待を集めた3人が、それぞれに力の限りを尽くしたアトランタの42・195キロだった。

 ◆有森裕子(ありもり・ゆうこ)1966年(昭41)12月17日、岡山市生まれ。岡北中時代はバスケットボール部。就実高で陸上を始める。日体大時代までは無名選手。89年リクルート入社を契機にマラソンに転向。90年1月の大阪国際女子で、女子のデビュー最高記録(当時)2時間32分51秒で6位に入り脚光を浴びる。翌91年の大阪国際では当時日本最高の2時間28分1秒を記録し、日本人トップの2位に入った。同年8月の東京世界陸上で4位に入り、その実績でバルセロナ五輪代表切符を獲得、銀メダルに輝いた。164・5センチ、48キロ。

※記録や表記は当時のもの