1993年(平5)に導入されたフリーエージェント(FA)制度と、高校生以外の新人選手に与えられた逆指名制度の導入が、西武を中心とした球界の勢力図を大きく変えた。

即効性があったのはFA制度だ。当初は権利を取得するまで累計10年を要したが、中日の落合博満が中日から巨人にFA移籍。翌年には西武の工藤公康、石毛宏典がダイエーへFA移籍するなど、実力のある大物が次々とチームを変えた。

FA制度は年々ルール変更されたが、やや低迷を続けていたセ・リーグが息を吹き返した。パの実力がある選手は、注目度の高いセへの移籍が多く、特に注目度も資金力も豊富な巨人への移籍が目立った。

FA導入後、パからセに移籍したのは31選手。逆のセからパへの移籍は9選手しかいない。しかもセからパへ移籍する場合は「メジャーを目指したが断念」(04年の稲葉篤紀がヤクルトから日本ハムへ)や「古巣に帰る」(06年の小久保裕紀が巨人からソフトバンク)など、純粋な補強とは言えないケースが多かった。

セの巻き返しのもう1本の柱は逆指名制度で、その後は自由枠や希望枠と名称とルールの変更があった。それでも最も恩恵を受けたのは巨人で、97年の高橋由伸、98年の上原浩治、00年の阿部慎之助といった即戦力選手が巨人に入団した。

戦術面では、90年に就任したヤクルト野村克也監督がデータを重視した「ID野球」を実戦に活用。弱小球団を率いた3年目にリーグ優勝し、93年には日本シリーズ3連覇中だった西武を倒して日本一を達成。その後、02年までの10年間は巨人3回、ヤクルトが4回、シリーズを制した。この間の日本シリーズはセが8勝。パはイチローを擁した96年オリックスと、王貞治監督が指揮した99年のダイエーが制しただけだった。

95年6月、メッツ戦でメジャー初勝利を飾ったドジャース野茂
95年6月、メッツ戦でメジャー初勝利を飾ったドジャース野茂

パの劣勢が続いた原因のひとつに、95年に近鉄からメジャーに移籍した野茂英雄の存在が挙げられる。

当時はポスティング制度がなく、実力NO・1投手の野茂が日本球界から任意引退を宣言し、ドジャースへ移籍。そしてメジャー1年目から13勝6敗、防御率2・54、236三振をマークして最多奪三振のタイトルを獲得。チームを地区優勝に導き、メジャーでも日本人投手が通用することを証明した。

野茂の活躍が火を付け、翌年オフにはロッテから伊良部秀輝もメジャー移籍を希望し、球団ともめたあげくにヤンキースへの移籍(パドレスからトレード)を実現させた。1年目は5勝4敗と振るわなかったが、2年目は13勝9敗で日本人初のワールドシリーズ制覇。「日本人のトップクラスの投手は、メジャーで通用する」という考えを定着させた。

パを代表する2投手のメジャー移籍は、リーグのレベルを下げることにつながったが、これを機に日本人投手のメジャー移籍は普及した。

98年にポスティング制度が導入され、00年のオフ、オリックスからイチローがマリナーズへ移籍。メジャーでの活躍は、触れるまでもないだろう。日本のトップ選手は、野手でも通用することを証明した。

ここまでメジャーへ移籍したのはパ球団の選手ばかり。リーグの低迷に影響があったとも受け取れるが、これまでセに移籍していた選手が、メジャーに移籍したとも受け取れる。この流れが、セの弱体化へと波及していった。(敬称略、つづく)

【小島信行】