同級生の安西健二は、愛甲より先に合宿所に入っていた。2人は1年からレギュラーとして活躍し、のちに全国優勝の原動力となる。チームを支える両輪だった。

 安西は横浜・末吉中時代は無名だった。3年間で公式戦1勝というチームにいたが、入学前からレギュラーを約束されるほど評価されていた。中学3年の秋から、週末は横浜高の練習に参加した。中学を卒業した日に合宿所に入っている。

 安西 愛甲より1週間ぐらい早かったかな。オレは秋から練習に参加していたし、中学の先輩もいた。2年生が1人、3年生が2人。だから部の雰囲気にもすんなり入っていけた。でも、愛甲は苦労したかも。今でこそしゃべるのもうまいけど、当時はしゃべる方ではなかった。人に頼らないというか、どんなことも負けないという意地っ張りなところもあったからね。

 愛甲は1人でいることが多かった。

 愛甲 オレは学区外の逗子から行ったからね。横浜市内の連中は中学から知り合いで、和気あいあいとしていたから、最初はその輪に入るのが大変だったな。安西は先輩までいたしね。オレにも中学の先輩はいたけど、すでに退部していた。あと、野球部じゃないけど、「のぼる君」という、ものすごく悪い先輩がいてね。逆に「お前、のぼるの後輩か!」って説教されたよ(笑い)。

 入寮した日にマネジャーから「はい」「いいえ」「違います」以外は口にするな、一人称は「自分」を使えと指導された。当時の横浜高は武闘派で、先輩は厳しかった。入学前からスタメンで起用されていた安西は、目の敵にされた。

 安西 1年の仕事は楽をさせてもらったのかもしれないが、「説教」はハンパじゃなかったな。

 「動きがキビキビしていない」「気合が入っていない」。そんな指摘を合図に、先輩に合宿所で正座させられ説教を受けた。

 安西 説教の内容? 正座して殴られる、蹴飛ばされる。理由なんか何でもいいんだから。最初は怖くてね。もちろん痛いしね。試合で打っても、エラーしてもやられる。すごいところに来ちゃったなと思ったよ。

 愛甲は入学直後から別メニューで練習していた。当時監督の小倉清一郎が彼のためにメニューを作成し、控えの3年生を指導役につけていた。この特別扱いも上級生に目をつけられた。

 愛甲 指導役は瀧澤さんというマジメな先輩だからよかった。でも、あるとき瀧澤さんが風邪か何かで休んだら、別の3年生が「今日はオレが見てやる」と言い出した。鳴り物入りで入学したけど…という人でね。ボクが小倉さんに目をつけられたことで、ねたまれたんでしょう。投球練習で「投球間隔が長い。10分で100球投げろ」と言われて、慌てて投げたら、今度はブルペン捕手の先輩に怒られた。どうすりゃいいんだよな。今でいうイジメだよ。

 小倉に一目置かれた幸福を感じる余裕もなかった。ただ、いかに小倉が愛甲にほれ込んでいたか。それを如実に表すエピソードが残っている。(敬称略=つづく)

【飯島智則】

(2017年5月10日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)