元ヤクルト外野手の加藤誉昭さん(たかあき=54)は、港区南青山の「霧島地鶏きばいやんせ」で働いている。

 店名は、鹿児島弁で「頑張ろってください」という意味になる。NHK大河ドラマの「西郷どん」でも出てくる言葉である。


 加藤さん(以下、敬称略) 将来的に郷土料理の店を出したいと考えており、修業を兼ねて働いています。立場はアルバイトですね。炭を使って、地鶏を焼く。そういう料理を出す店をやりたいと思っています。


南青山にある「きばいやんせ」の前に立つ加藤さん
南青山にある「きばいやんせ」の前に立つ加藤さん

 店に出るかたわら、「Kゴリちゃんホームランレッスン」と名付けた野球教室も開いている。店にも近く、現役時代の本拠地だった神宮球場に隣接するバッティングセンターを使っている。


 加藤 お客さんに「教えて」と言われたのが始まりです。店の話題づくり、お客さんとの交流…そして、私自身のキャリアアップという目的があります。やっぱりね、野球にはかかわっていきたいので。


 1988年(平元)限りでプロ野球界から離れ、ちょうど30年目を迎える。この間の話を約2時間半で振り返ってもらった。現在の話は最後の15分間ほどに過ぎなかった。

 語り尽くせぬほど、紆余(うよ)曲折のある月日だった。


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 加藤さんは宮崎・都城市に生まれ、都城商で左のスラッガーとして頭角をあらわした。


 加藤 当時、勢いがあったのは都城高校と都城農業でした。2強でしたね。


 各校から誘われる中、当時の山極秀男監督にひかれて、都城商を選んだ。


 加藤 この監督さんが一番自分に合うかなと思いました。のちに県の高野連で理事長などを務めていますから、やっぱり人望がある方だったんだと思います。


 周囲からは「都城商では甲子園もプロも行けないぞ」と言われたこともあったという。


 加藤 甲子園は絶対的な目標だけど、現実的には難しいのかなと、私自身も思っていましたね。でも、伸び伸びやらせてもらいました。バントのサインが出たこともなく、いつも「お前が何とかしてこい」と言われていました。


 最後の夏に甲子園出場を果たす。晴れ舞台では帯広工との2回戦で本塁打を放った。岡谷工との3回戦では、加藤さんが先制アーチを放った。同点に追い付かれたものの、延長12回裏にサヨナラ本塁打で勝負を決めた。


1981年夏の甲子園、加藤誉昭(都城商)は3回戦の岡谷工戦で2本塁打を放つ大活躍
1981年夏の甲子園、加藤誉昭(都城商)は3回戦の岡谷工戦で2本塁打を放つ大活躍

 続く準々決勝で敗れたものの、スラッガーとしての評価は高まった。プロから注目される存在になった。


 加藤 1年の頃から、社会人チームに誘われていました。キャンプに参加してパカパカ打ってね。2年でほぼ内定をもらっていた。甲子園の後は大学からも声がかかった。法大とか早大ですね。私は早大に行きたかった。当時は岡田さん(彰布)がいてね。原さん(辰徳)も大学時代だから、よく大学野球を見ていました。気持ちは進学でしたね。


 ドラフト会議では2位でヤクルトに指名された。予想以上に早く名前を呼ばれた。


 加藤 田舎ですからね。もうお祭り騒ぎですよ。後から聞いたら、当時ヤクルトの監督だった宮崎出身の武上四郎さんが、当日に「2位でいく」と決めたそうです。こんな上位で指名されたら、もう「行かない」なんて言えません。他の選択肢が消えちゃったんですよ。


 ちなみに同年の1位は宮本賢治投手(亜大)だった。4位では現監督の小川淳司外野手(河合楽器)が指名されている。


 加藤 指名直後から親戚と名乗る人が毎日のように自宅に来た。会ったこともない人までね。笑ったのは、高校の教頭先生が来たんですよ。「実は遠縁なんだ」って。それまで毎日学校で会っても何も言わなかったのにね。地元は後援会だとか、盛り上がっていましたね。もうプロに行くしかなくなった。もちろん自分自身も勝負してやろうとは思っていました。


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 プロの壁は厚かった。自主トレ、キャンプから練習についていけなかった。


 加藤 当時はまだ広岡さん(達朗)が辞めた直後でね。広岡イズムが残っていた。とにかく走らされましたよ。「しまった」と思いましたね。契約金返すから帰りたいなと。それぐらいきつかった。


 アクシデントもあった。1年目のある日、激しい腹痛に襲われた。トレーナーの車で病院に運ばれ、検査を受けた。特に異常はなかった。だが、体調は戻らなかった。


 加藤 体に力が入らないというか…とにかく調子がよくなかった。時にチクチク痛んだり、走るとすぐにバテてしまったり。体の不安を抱えながらやっていました。


 球界を離れた後に原因が分かる。30歳になった頃、やはり激しい腹痛で病院に行った。何度か検査を重ねたところ、盲腸だと分かった。すでに腹膜炎を起こしており、手術を受けた。


 加藤 普通の盲腸(虫垂)はタテに出ているところ、私は横になっていたと。だから見つけられなかったそうです。最初に病院に運ばれたのが18歳だから、12年間そのままだったわけですよ。盲腸がタラコみたいに大きくなっていてね。12針縫う大手術になりましたよ。医師からは「今日来なかったら命にかかわった」と言われました。「これで、よく野球をやっていたね」と。


 体調不良を抱えたままでのプロ生活だった。大成できなかった要因だったのではないか。


 加藤 それは言い訳になるよね。だから、プロ時代の話を聞かれても、この話はしませんでした。今日が初めてじゃないかな。でもね、いつも体の不安があった。自信を持って臨めなかった。もちろん技術的な問題もありましたけど。


 プロ3年目の1984年に1軍に昇格し、5打席に立った。だが、無安打2三振に終わった。6年目の87年にもチャンスを得たが、3打数無安打、3三振だった。


 加藤 1本出ていれば違ったかもしれませんね。そう考えると悔しいですよ。6年目は広島戦に呼ばれて、津田さん(恒実)と対戦しました。「これが最後のチャンスだ」という思いで臨みましたが、手も足も出なかった。まあ、ああいう方のボールを打席で見られて、振り返れば、いい思い出にはなっています。


ヤクルト時代の加藤氏
ヤクルト時代の加藤氏

 7年目を終えた88年オフ、戦力外通告を受けた。


 加藤 若手が次々に入ってくるから仕方ないけど、自分なりに打撃をつかみかけていた。「こうやって打つんだ」という感触をつかみかけて、おもしろくなってきたところでした。だから現役を続けたい。そう思いました。


 他球団のテストを受ける道を模索したが、かなわなかった。ヤクルトのトレーナーから「トレーナーの道に進んだらどうだ」と勧められ、専門学校を受けた。


 加藤 このトレーナーは親切な方でね。「コネがあるから入学できる。卒業したらスポーツクラブを紹介するよ」と言ってくれた。でも、定員50人のところ500人も受験して、落ちました。これでね、何もする気がなくなっちゃった。


 埼玉・戸田にあるヤクルトの寮も出なければならない。だが、行き場がなかった。


 加藤 寮長さんが「新入団選手が入寮してくるまで残っていてもいいよ」と言ってくれた。戸田の自動車教習所に通っていたので、寮にお世話になって。あとは雪谷に住んでいた高校時代の友達の家に転がり込んだ。(小指を立てて)これじゃないですよ。「これ」はクビになったら、みんな離れていきました。持つべきは友達です。


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 新しい仕事が決まらぬまま、新年を迎えた。


 加藤 さすがに寮も「そろそろ出て行ってくれ」と。友達にも「いいかげんに自分で部屋を借りろよ」と言われました。お金は残っていたんですけど、どこに借りたらいいか分からない。友達が「蒲田がいいよ。物価も安くて住みやすい」と言うから、蒲田にワンルームを借りた。


 友人に車を借りて、戸田の寮に荷物を取りに行った。


 加藤 私が「お世話になりました」と言って出て行こうとしたら、「お世話になります」って入ってくる者がいた。笘篠(賢治)ですよ。彼が神妙な面持ちで入ってきた。


 中大からドラフト3位で指名された、加藤さんと同じ外野手だった。去る者と来る者の差を痛感しながら、7年間を過ごした寮を出て行った。


 現役時代に積み立てていた約800万円があり、当面の生活には困らなかった。仕事は探さなかった。


 加藤 当時は「セカンドキャリア」なんて考える時代でもなかった。つぶしもきかないでしょう。何もする気になれなかった。仕事をする気にもなれませんでした。


 何をして過ごしていたのか。


 加藤 駅前から無料バスが出ているんですよ。平和島競艇場へのね。それに乗り込みました。


 競艇場通いの日々が始まった。

 この日の取材では大きなサイズのノートを17ページ使ってメモした。ここまで書いて、まだ5ページほどである。(つづく)【飯島智則】