人は逆境に立たされてこそ、本物か否か試されるという。ならば、母校の智弁和歌山を夏の甲子園優勝に導いた中谷仁監督(42)は、まさに本物の人間だと思う。97年ドラフト1位で阪神入り。正捕手候補と期待され、背番号22のユニホームに袖を通した。ところが99年、不慮の事故で左目を負傷。2・0あった視力が0・08へと悪化し、選手生命の危機に立たされた。
左右の視力が違いすぎ、頭痛が止まらない。虎風荘での静養が続き、ストレスから体重が大幅に増えた時期もある。それでも20歳の若者は、ぼやけた視界の中の未来を懸命に見つめた。サングラスを掛けて目を守り、鳴尾浜での練習に戻ってきた。「先のことは分かりませんが、後から悔いを残さないように精いっぱい努力をしたいんです」。岡田彰布2軍監督(当時)も「以前はやや雑に打撃練習をしていたこともあったが、ケガしてからは丁寧にボールを見て打ち始めた」と感心していた。
選手として生き残るために右目で見やすい左打ちを試したり、投球練習まで行った。それでも右打ちの捕手として、生きていく決心を固めた。「打てなかったり守れなかったりしたら、それは僕が下手なんです。ケガのせいではありません」。決然とそう言い切る口調は、とても20歳の若者のそれではなかった。
02年には1軍昇格し、9月5日広島戦では藤川球児と先発バッテリーを組んだこともある。06年には楽天へ移籍。2軍戦では内野手としても出場するなど、さまざまな経験を積んだ。そして迎えた09年6月21日、甲子園での阪神戦は「一生忘れられません」というターニングポイントとなった。5回に代打で打席に立ち、能見篤史から左翼へプロ1号。4万6856人の大観衆から、大きな拍手を受けた。凡退なら2軍落ちが決まっていたが、そのまま守りにつくチャンスを得た。7回には赤星憲広の二盗を刺し、思い出の甲子園で古巣に見事な恩返しを見せた。ここから野村克也監督の信頼を勝ち取って55試合に出場し、球団初のCS出場の立役者ともなった。
12年には巨人に在籍し、同年引退。プロで教えを受けた監督はまさに多士済々だ。阪神では吉田義男、野村克也、星野仙一、岡田彰布。楽天では野村、ブラウン、星野。そして巨人では原辰徳。引退に当たって原監督は「中谷という選手は非常に印象深い。スコアブックに残らなかった彼の働きを、我々は受け継いでいかなければならない」という異例の談話まで出している。通算111試合、28安打、4本塁打、打率1割6分2厘。お世辞にも名選手だったとは言い難い。それでも若手投手への声掛けやベンチでの振る舞いなど、海千山千の知将をうならせる働きを見せたのだった。
阪神の正捕手としてプレーするはずだった甲子園で、中谷監督は高校日本一となった。采配を振った聖地のベンチで、ケガに悩んだ青春の日々や、思い出の初本塁打は脳裏に浮かんでいただろうか。いや、頭の片隅にもなかったに違いない。いかなる状況にあっても後ろを振り返らず、今を生きるのが彼だからだ。第103回夏の甲子園優勝。智弁和歌山監督、中谷仁。本物の人間である。【99~01年プロ野球担当 高野勲】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「野球手帳」)








