高校球界の強豪、帝京を率いた前田三夫監督(72)が今夏限りで勇退したことが28日、明らかになった。

秋季東京都大会の選手登録が締め切られたこの日、教え子の金田優哉コーチ(36)を監督とする名簿を提出したことが分かった。自ら決断し、今後は名誉監督の立場で協力する意向のようだ。今夏の東東京大会は、準決勝で敗退していた。甲子園通算51勝を挙げ、春1回、夏2回の優勝。数多くのプロ選手も育てた名将が、静かにユニホームを脱いだ。

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コロナ禍、雨にもたたられた甲子園の裏で、前田監督がユニホームを脱いでいた。新チームの指導はコーチに任せ、公表も控えていた。関係者によると「甲子園のじゃまになるようなことは避けたい。自分のことは大会が終わってから」と話したという。甲子園の決勝が29日に延び、秋季大会の名簿提出がその前日28日になり、明らかになった。

今夏の東東京大会が最後の采配になった。二松学舎大付に2-4で敗れた。「この弱いチームをどこまで引っ張れるか、僕には挑戦だった」と振り返り、今後については「ベスト4、決勝と圏内にとどまっていけばチャンスはある」と語っていた。甲子園は11年夏を最後に、もう10年届いていない。今年が監督就任50年でもあった。区切りの数字が並んで決断したのだろうか。

就任は72年だった。あいさつで「甲子園に行こう」と呼びかけると、部員に笑われたという。練習開始から2週間後には約40人いた部員が4人に減った。新監督には、先の見えないスタートだった。それでも78年のセンバツに選ばれ、初めて甲子園の土を踏んだ。

89年夏、エース吉岡を擁して初優勝した。92年春、95年夏にも全国を制した。「東の横綱」と呼ばれる存在になっていた。当初サッカー部と共用だったグラウンドは、専用の人工芝に変わった。メニューにはウエート、水泳などが加わり、食事面を重視した体づくりにも取り組んだ。時代を感じながら、指導を続けてきた。最後に東東京を制したのは昨夏のこと。独自大会となって、甲子園に続く道はなかった。

06年夏の準々決勝、智弁和歌山戦は球史に残る激闘といわれる。9回に8点を奪う猛攻をみせ、その裏5点を失ってサヨナラ負けした。相手の高嶋仁監督は18年を最後に勇退。同じ72歳の夏だった。

前田監督が自ら採用したタテジマのユニホームを人知れず脱いだ。一時代を築いた名将がまた1人、グラウンドを去った。

 

◆前田三夫(まえだ・みつお)1949年(昭24)6月6日、千葉県生まれ。木更津中央では三塁手として活躍。3年夏は千葉大会の準決勝(成東)で敗れ、甲子園出場はない。帝京大に進み、卒業後の72年に帝京の監督に就任した。甲子園は春1回、夏2回優勝。通算51勝(23敗)は歴代5位。18年には東京選抜の監督を務め、キューバ遠征した。教え子にはソフトバンク中村晃、DeNA山崎、阪神原口らがいる。

 

◆06年夏の帝京-智弁和歌山VTR

準々決勝で対戦し、帝京が12-13でサヨナラ負けした。4点を追う9回2死から6連打で8点を奪って逆転したが、主戦の大田(元DeNA)に代打を送ったことで、9回裏は投手が本職の選手がいなくなった。6四死球、1本塁打などで智弁和歌山に5点を奪われた。1年生の杉谷(現日本ハム)が1球で敗戦投手に。4番は中村晃(現ソフトバンク)。智弁和歌山の1試合チーム5本塁打、両チーム合計7本塁打などは大会記録に残っている。