履正社は、春の王者・大阪桐蔭に0-7で敗れ、準優勝に終わった。

最後の攻撃を迎える前に、履正社の4番・橘高純平内野手(3年)は泣いていた。8回裏、一塁を守りながら、悔し涙がこみあげた。「なんとかしたかったのに、何もできなくて」。打点ゼロの自分がふがいなかった。

7点差を追いかけた8回、無死一、二塁の絶好機を迎えた。だが3番の三木太介外野手(3年)は併殺に倒れ、橘高は初球の死球でバットを振らせてもらえず。「最後は打って終わりたかった。悔しくて泣いてしまいました」。9年ぶり4度目の大阪桐蔭との決勝は、履正社の4連敗に。「完敗です。夏の大阪桐蔭の強さを感じました」と多田晃監督(44)も認めた。

歴史が変わった年だった。岡田龍生監督(62)が3月で退任し、母校の東洋大姫路(兵庫)へ。前年の春は、01年8月からコンビを組んできた松平一彦野球部長(44)も母校・大体大コーチに就任。恩師が甲子園優勝校にまで育てた履正社をどう導くか、多田監督の模索の日々が始まった。

小西柚生(ゆき)主将(3年)は、監督の苦悩も見てきた。「部内のルールや決まり事も見直そうということになって。すごく大変だったところもあって、多田先生もこれでいいのかって日々考えてくださって」。新監督は選手の考えも聞き、思いを伝え合った。「苦しいときも、監督の言葉で大丈夫だと思えた」と選手たちは明かす。大阪準優勝の原点は、信頼。部活動に打ち込んだ日々を振り返った橘高は「何の後悔もない2年半でした」と、最後は笑った。履正社に、新たな歴史が生まれた22年の夏だった。【堀まどか】

▽東洋大姫路・岡田龍生監督(3月まで履正社監督で19年夏の甲子園優勝)「ここまで来て、1年目でチーム作りをよく頑張ってくれました。交代して、一生懸命やっていた。『自分の色を出して好きにやってくれたらいい』と言いました。自分の思うようにやったと思います」

◆履正社 1922年(大11)に福島商業学校として創立の私立校。83年(昭58)に現校名。生徒数は1196人(女子449人)。野球部も22年創部で部員数76人。甲子園は春9度、夏4度。OBにヤクルト山田哲人、オリックスT-岡田ら。豊中市長興寺南4の3の19。松本透校長。