マリナーズ菊池雄星投手が18日(日本時間19日)、本拠地でのレイズ戦に先発する。17日に30歳の誕生日を迎えて立つマウンド。オフに座右の書という藤沢周平「蝉しぐれ」の企画展へ寄せた言葉には、メジャー3年目の舞台に臨む男の決意と覚悟が、力強く記されていた。
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後悔とは何か… 物語が促す自問 菊池雄星(シアトル・マリナーズ)
『蝉しぐれ』を読んだのは今から約三年前。
西武ライオンズ時代の担当記者からの薦めであった。
その担当記者が西武に配属されてまだ数カ月の時、初めてゆっくり話す機会があり、そこでお互いのお勧めの本を紹介し合った。
まさに名刺代わりの一冊だった。
私はよく、好きな本を人から教えてもらい、実際に読むようにしている。特に出会ってすぐに聞くことが多い。相手がどんな趣味嗜好を持ち、どのような言葉を大切にしているのかなどを把握するのに的確かつ容易な手段だと考えているからだ。
同時に何かしらの意図があって私に勧めてくれたのだろう、というメッセージ性を感じながら読むことも楽しみの一つだ。
ちょうどその頃、私達はパシフィックリーグ優勝が目前で、個人的にも長年の夢であったメジャーリーグ挑戦を間近に控えている時だった。
「このタイミングで、なぜこの本を私に紹介してくれたのだろう」
担当記者との会話の翌日、疑問を解消するために都心の八階建て本屋の階段を三段飛ばしで駆け上がり、『蝉しぐれ』を購入した。
いざ読み始めると、自分がこれまで読んできた歴史小説とは違う、さらさらとした透明感のある文調で進む、しっとりとした物語の虜になった。
その中でも、紛争に巻き込まれて父を失った文四郎が、忠義や友情、そして父への想いを抱きながら成長していく。その成長の道中にある文四郎の感情に浸りながら読み続けた。
本書のテーマとも言える「後悔」という言葉が度々出てくる。
文四郎は、切腹を命じられた父との最後の面会で、聞きたいことがたくさんあったのにもかかわらず、何も話すことが出来なかった。
そんな自分を
「ここまで育ててくれて、ありがとうと言うべきだったのだ。母よりも父が好きだったと、言えばよかったのだ。あなたを尊敬していた、とどうして素直に言えなかったのだろう。そして父に言われるまでもなく、母のことは心配いらないと自分から言うべきだったのだ--」
と悔いた。
それを聞いた親友の逸平は
「人間は後悔するように出来ておる--」
と文四郎を励ます。
本の最終場面でも、互いに想いを寄せ合いながらも、叶わぬ恋となった「ふく」との会話の中で、ふくは
「この世に悔いを持たぬひとなどいないでしょうから--」
と文四郎に伝え、本は終わりを迎えた。
私はこの本を読み終えた時から、「後悔」についての自問が始まった。
そして、改めて今までの人生を振り返ってみたとき、確かに後悔は「するように」出来ているのかもしれないと思った。
成人したのを境に、周囲からよく、親父とは元気なうちに二人でお酒を飲むように言われるようになった。
それを聞いた当時、私は「親父はいつも元気だから、来年でいいか」という想いと、「二人きりでは恥ずかしい」という二つの想いが常に同居していた。
しかしある日突然、父は体調を崩し、そのまま闘病生活へ。そして「いつか」は訪れることなく父は天国へ旅立った。
まだまだ伝えたいこと、聞きたいことがたくさんあった。
アメリカで生まれた息子の顔、メジャーの大舞台で投げている姿を見せたかった。
お酒の力を借りてでも「あなたの息子で幸せでした、育ててくれてありがとう」と言いたかった。
これが「後悔」というものなのか。そんなことを考えていた。
確かに、父と杯を交わすことは叶わなかった。父に感謝の気持ちを伝えることも出来なかった。
でも、「後悔しない生き方」を私は天国にいる父に見せたい。
「大きな夢を持て」
父が私に言い続けてくれた言葉だ。
私はその言葉を実行し、大きな夢に向かって挑戦し続ける。その姿を見せ続ければ、後悔することはないはずだ。どんな逆境や困難があろうとも、絶対に諦めない。必ず乗り越える。
天国にいる父はきっと自分のそんな姿を見て「雄星、その調子だ」と安心し、微笑んでくれるだろう。
夢を達成した時、父の墓前で「やったよ、親父」
そう報告し、座右の書を携えて二人でお酒を飲み交わしたい。
そしていつの日か胸を張って伝える。
「後悔などあろうはずがない」
憧れの、あの人のように。
藤沢周平記念館 開館十周年特別企画展『蝉しぐれ』の魅力 展示図録より
◆蝉しぐれ 藤沢周平の代表作である長編時代小説。映像化、舞台化もされた。江戸時代、東北の海坂藩士の子である主人公・牧文四郎は友人たちとともに成長、隣家のふくに淡い恋心を抱く。だが、藩の政争に巻き込まれた父が切腹を命じられたことで平凡な日々は一変。罪人の子とさげすまれ、ふくとの関係も終わる。やがて、剣の達人となった文四郎。佳人に成長したふくは藩主のお手がつく。ふくを巡る陰謀のもと、再び2人の運命が交わる。
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■■■耳にも心にも残る味のある言葉■■■
藤沢周平、宮沢賢治ら同じ東北出身の文士の影響を受けたかどうかは、定かではない。ただ、菊池の言葉には味がある。野球選手に限らず、質問者の意図をくんだ上で、自らの思いを少し遠回しに表現する選手はいる。菊池は素直な反応をする一方、独特の感性をのぞかせることがある。
先刻、投球フォームの変化についての質問をされた際、しばし考えた末、とつとつと話し始めた。
「小さい頃って、どこから風邪をひくか分からないじゃないですか。大人になると、喉から来るとか、頭(頭痛)から来るとか…風邪の引き始めが分かると思うんです。僕は喉から来るから、よくのどあめをなめていたら風邪をひかないと思っていたら、そうでもない。投球って、そんな感じかなと思います」
のどあめで対処しても風邪をひく可能性もある。投球フォームも、常にチェックを繰り返しても乱れは生じる。野球にも完璧な処方箋はなく、正解はないということか。難解な語句ではなく、日常の言葉で分かりやすく表現することは簡単ではないだけに、味のある言葉は、耳にも心にも残っていく。【MLB担当=四竈衛】
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◆開催中 山形の鶴岡市立藤沢周平記念館では、来年3月22日まで開館10周年特別企画展「『蝉しぐれ』の魅力」を開催している。藤沢周平の自筆原稿や創作メモなどを展示。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、同時入場は30人まで。詳細は同記念館公式HP(http://www.city.tsuruoka.lg.jp/fujisawa_shuhei_memorial_museum/)で。