【04年5月23日付・日刊スポーツ】

 【シアトル(米ワシントン州)21日(日本時間22日)=四竈衛、木崎英夫通信員】マリナーズ・イチロー外野手(30)が、日米通算2000本安打の偉業を達成した。あと2本で迎えたタイガース戦で第2打席に中前打、続く第3打席に左腕ロバートソンから中前へはじき返し到達した。オリックスでの1軍定着から実質11シーズンというスピード到達。第4打席でも2試合連続3安打となる右前打を放ち、打率を3割3分2厘まで上昇させた。ドラフト4位でプロ入りした天才打者は、心身ともに円熟の域に達した。

 その瞬間、ほんの少しだけ、はにかんだ。米国ファンには認知されていなかったであろう節目の一打。3万9102人の地元ファンの思わぬスタンディングオベーションが、最高のご褒美だった。そのわずかな時間だけは、4点のビハインドも忘れることを許された。

 第2打席で「王手」をかけて迎えた5回1死。数々の剛球をはじき返してきたイチローのバットは、左腕ロバートソンの146キロ真ん中低め速球を見逃さなかった。あまりにも鮮やかで、あまりにも軽やかな一打。電光掲示板に映る「2000」の数字を背に、一塁ベース上のイチローは、ヘルメットを頭上に掲げて返礼した。

 「うれしいという言葉は当たり前過ぎて使いたくないですが、そういう気持ちです。ファンの人たちが喜んでくれて、そのことに感激しました。日本での記録について、…という部分もありましたから」。

 1994年。日本球界初の年間200安打を達成し、その後は「天才打者」「安打製造機」と呼ばれ続けてきた。2001年。メジャー1年目で首位打者、MVPなど数々のタイトルを獲得し、その名声はさらに高まった。卓越した打撃技術と強じんな精神力に、異を唱える者はいない。だが、今現在、イチローが残した実績は、決して天賦の才だけによるものではない。

 プロ入り後、「鈴木一朗」が「イチロー」として脚光を浴びるようになった。だが打撃技術の基盤は、高校入学前の軟式野球に隠されていた。

 イチローはリトルやシニアリーグの経験はなく、愛工大名電高に入学するまで、硬式球でプレーをしていない。日本特有の軟式球は、少しでもミートポイントがずれると、凡飛やゴロになりやすい。幼いころ、愛知・春日井市の自宅近くのバッティングセンターに通い続けたことは知られているが、そのマシンの球は「直球」と表示されていても、実はマシンによってはスライダー、シュート回転と多種多様に動く。いわゆる米国流のムービング系の速球に似通っており、ギリギリまで球を見極めない限り、鋭いライナー性の打球は打てない。そんな練習を繰り返すうちに、一朗少年はいつしか微妙に動く球をバットのシンでとらえる感覚と動体視力を培っていた。

 「今の基本ができたのは、小・中学校のころ。決してプロに入ってからではないですね。それは鏡の前だったり、素振りをしている時だったり、実戦の中だけではないですね」。

 人は、イチローを「天才」と呼ぶ。その一方で、イチローは、夜間打ち込みやビデオ研究など、陰の努力を見せることをしない。むしろ、他人が思う努力は、努力とすら思っていない。

 「何をもって天才という定義にするか。人ができないことをやっているという評価であれば、こんなにうれしいことはないです。3000本?

 期待してもらうのは、いくらでも結構。そういうプレッシャーを感じていられる選手でありたいですし、プレッシャーのない平凡な選手でいるよりも、どんなに幸せか」。

 さらに、今後の可能性について続けた。

 「自分の形ができていれば、技術的に飛躍的に伸びることはない。そうじゃないと、これまでが何だったのか、ということにもなりますから。もちろん、もっとうまくなりたいです。ただ、(偉業を)やった人が多いとか少ないとか、そういうものに惑わされたくはない。次は…。あくまでも2002本目です」。

 技術を追い求め、心を研ぎ澄ませた結果の2000本安打。今でこそ、押しも押されもせぬスーパースターになったものの、記録達成の瞬間には、プロ入りの際、担当だった故三輪田スカウトの言葉が頭をよぎった。

 「2000本打てるようにがんばれよ」。

 ベース上で控えめにヘルメットを掲げたしぐさは、照れ屋のイチローが見せた、精いっぱいの感謝のメッセージだった。