プレーバック日刊スポーツ! 過去の2月2日付紙面を振り返ります。1997年の1面は中日星野仙一監督でした。

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 中日星野仙一監督(50)が初めて人前で泣いた。前日1月31日に最愛の妻、扶沙子(ふさこ)夫人(享年51)を亡くした同監督はキャンプインの1日、気力を振り絞ってナゴヤ球場のグラウンドに立ち、笑顔でナインに檄(げき)を飛ばした。しかし、午後7時から名古屋市千種区の日泰寺・普門閣で行われた通夜では「こよなく名古屋を愛し、私以上にドラゴンズを愛してくれた」と涙を流した。なお告別式は今日2日、同所で行われ、中日の全選手が参列する。

 悲しみをこらえるのも、もう限界だった。喪主として通夜の最後にあいさつに立った星野監督の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 「1週間ほど前から病魔と必死に闘ってきた。それはすさまじい闘いでした……」と打ち明けると、これまで突っ張り、踏ん張ってきた緊張の糸が切れたのか、続く言葉が見つからない。「扶沙子は、こよなく名古屋を愛し、私以上にドラゴンズを愛し、頑張ってくれた……」。そう話すと星野監督の目から涙があふれ、参列者の間から思わず嗚咽(おえつ)が漏れた。

 これまで人前で涙を見せたことなど、ほとんどなかった。夫人が亡くなった前日1月31日も何もなかったかのようにナゴヤドームを訪れ、球団の行事に参加した。そして、キャンプインとなったこの日も……。

 練習を前に星野監督はナゴヤ球場の外野に全選手、スタッフを集めた。「オレのことでいろいろ迷惑をかけてスマン」。そうあいさつすると、ナインの間からはすすり泣きも漏れた。しかし、指揮官は泣かなかった。円陣の真ん中に仁王立ち。時折、笑顔さえ見せながらナインに檄を飛ばした。

 「うちのチームは補強されていないというが、みんなが自分の力を高め、それを出し切ることこそが最高の補強なんだ」。清原、ヒルマンら33億円もの大補強で戦力アップした巨人と比べ、新戦力は新外国人のゴメスくらい。打倒巨人へのあくなき執念は最愛の夫人を失っても、いささかも衰えることはなかった。

 しかし、夫とともに闘ってきた夫人は白血病という難病の前に51歳という若さで逝った。自分以上に名古屋とドラゴンズを愛し、選手をかわいがってくれた。くしくも今年は13年ぶりに名古屋で1次キャンプを張った。例年のように沖縄でキャンプインしていたら、今日2日に行われる告別式に選手は参列できなかっただろう。

 ミーティングが終わり、円陣が解けようとした時だ。島野ヘッドコーチが選手に呼びかけた。「もう一度、あのファミリーパーティーをやろう。そして(天国の)奥さんにも来てもらおうじゃないか」。

 1988年(昭63)優勝したオフ、家族への慰労をかねて名古屋市西区の屋内練習場で、星野監督夫妻が主催したささやかなファミリーパーティーが開かれた。星野監督の傍らでは扶沙子夫人がほほ笑んでいた。あの喜びをもう一度、天国の扶沙子夫人に送りたい。

 思わず口を強く結んだまま、星野監督はその場を離れた。選手、スタッフの熱い思いは指揮官に痛いほど伝わった。この日は通夜のため、午前中で球場を後にした星野監督。今日2日の告別式を済ませ、明日3日から打倒巨人、そしてナゴヤドームでの胴上げを見られないまま逝った扶沙子夫人のために再び燃える男に戻る。

☆衣笠氏江本氏ら2000人参列

 扶沙子夫人の通夜は1日午後7時から名古屋市千種区の日泰寺・普門閣で、しめやかに行われた。元広島の衣笠祥雄氏(50)、プロゴルファーの尾崎将司氏(50)、国会議員の江本孟紀氏(49)ら、およそ2000人の参列者が故人を悼んだ。風邪を心配してナイン全員の参加は自粛されたが、球団関係者らが場内整理、受け付けなどで全面的にサポート。なお告別式は今日2日午後1時から、同所で全選手が参加して行われる。

☆ONも「死」と闘う

 ONもかつて、深い悲しみを乗り越えて指揮を執り続けた。ダイエー王監督は巨人監督時代の1985年(昭60)8月25日に父仕福さん(享年84)を亡くした。仕福さんが死去したのは午後6時39分で、王監督は知らぬまま広島戦(広島)を指揮。試合終了直後の午後9時10分に訃報(ふほう)を聞いた。帰宿後、王監督はナインの前で「状態は悪かったので、広島に来る前にお別れはしてきた。これは関係なく、野球のことは一試合一試合、今まで通り戦っていこう」と告げた。2日後の27日にとんぼ返りの形でようやく帰京した。

 巨人長嶋監督は3年前の7月24日に母チヨさん(享年92)を亡くした。同監督はその夜、母の死をひた隠しにし、中日戦(ナゴヤ)を指揮。千葉県佐倉市の実家に戻ったのは8月に入ってからだった。8月9日になって初めて公になったが、「去年も危ない時期はあったんですが、奇跡的に持ち直しました。(92歳まで生きて)お祝いしなきゃいけないくらいです」と気丈に語った。

※記録と表記は当時のもの