平日の昼下がりだから無理はない。観衆はわずか13人。6月上旬、日刊スポーツ大阪版の企画「あの猛虎は今」の取材で、和歌山・田辺に向かった。熊野古道へと分け入っていく街に、かつて阪神のエースに君臨した井川慶がいた。ゆったりと右足を上げて投げ下ろすシルエットは、いまもなお力強い。6回、先頭打者がセーフティーバントを狙うと、機敏にマウンドを駆け下り、くるりと身を翻して一塁に送球する。軽やかに動き、相変わらず重量感のある直球を投げる。

 「肩や肘が元気なので、そこが一番ですよね、投手は。若い頃の方が勢いもあったし、スピードもありましたけど、年相応に限界まで突き詰めてやりたい。もうすぐ38歳になるけど、もうちょいで限界かな、もうちょい行けるかな…」

 15年にオリックスを戦力外になると、阪神時代のトレーニングコーチだった続木敏之監督(58)に誘われる形で、昨年2月から独立リーグ「ベースボール・ファースト・リーグ」の兵庫ブルーサンダーズの練習に参加していた。拠点の三田市に足しげく通った。今年は選手登録され、先発の柱として登板を重ねる。6月15日の06ブルズ戦も9回で11三振を奪う2失点完投。これまでスピードガンは145キロを計測するなど球威は健在で、20歳近く離れた若者を寄せつけない。

 阪神の18年ぶりリーグ優勝の立役者だった。03年はMVP、沢村賞、最多勝、最優秀防御率のタイトルを奪取。球団最後の20勝投手だ。名門ヤンキースのマウンドにも立った。一度は頂点を極めた男がなぜ、いまもまだ、投げ続けるのか。

 「自分の球をもう1度、投げたい。何とか、もう一段階(レベルを)上げて、自分の球を投げて、気分よく終わりたい。1年間しっかり投げて納得いく形になれば、潮時かなと思っています」

 プロのユニホームに袖を通して20年がたった。実はオリックスでプレーしていた15年も、夏前に引退を覚悟した。球威は衰え、2軍でも打ち込まれた。「もう厳しい。状態も良くないし、自分で決めないと…」。調整を任され、シーズン終盤に2軍戦で志願登板。すると意外にも球速が戻り、好感触を得た。「この状態で、最後の1シーズンを投げたい」。燃え尽きてユニホームを脱ぐ。引き際を思い描く胸中には「先発投手」としての自負がにじむ。

 「日本に帰ってきて1シーズン投げ切れなかった悔しさがあった。タイガースのとき、自分の売りは1年間ローテを守ること。それをもう1年だけやりたい」

 阪神での全盛期、登板後の口癖は「試合を作れたので…」だった。井川は振り返る。「爆発的に勝つ投手ではない。自分はイニングを稼ぐ投手。ケガして休んだら価値がない。いつも試合を作る投手でありたいと思います」。野村克也監督が指揮を執る01年から先発に定着すると、故障者が続出するなか、ローテーションを守り続けた。「お前中心で回っている。お前がコケればチームがコケる」。コンビを組む山田勝彦(現阪神2軍バッテリーコーチ)らに言われた言葉だ。必死に耐え、気づけば192イニングも投げていた。

 「よく頑張ったな」

 シーズン後、辛口の指揮官に珍しく褒められたという。「うれしかったんですよね」。プロとしての原点だ。決して順風満帆の人生ではない。ふと、思い出すのは駆け出しのころだ。制球難を克服できず、特に変化球は、まるでストライクが入らない。ある試合で、見かねた岡田彰布2軍監督から助言されたという。

 「全球、変化球を投げてみろ、このイニング」

 指示通りに投げれば不思議にも抑えられた。ベンチに戻ると言われた。「できるやんか。大丈夫や」。周囲の人たちに後押しされながら、不安を1つずつ自信に変えていった。優勝に導いた03年には、ひそかに誓いを立てている。「防御率のタイトルを取る。200イニングを投げる。7回3失点が最低ライン」。エースが自らに課したノルマだ。200イニング超えは4度あった。井川は「若い頃の自分を目指して…」と言う。人には花道がある。今年を野球人生の集大成に位置づけ、白球と向き合う。

 グラウンドで笑顔が増えた。メジャーリーガーの看板を外し、兵庫ナインに溶け込んでいるのだ。続木監督は言う。「若い子の中に入ってきてくれて。投げるための準備や、練習への態度や、過去の経験を見たり聞いたりできます」。バッテリーを組む森川大輔捕手(20)も「練習の時から盛り上げてくれる。コミュニケーションを取ってもらえるので、雰囲気的にやりやすいです。井川さんと組めて勉強になります」とうなずく。威張らず、等身大で野球に向き合う。苦戦した米国では、心を動かされる光景に出合っていた。阪神を去り、大リーグに挑んだ07年だ。1Aで、古巣復帰した大投手のロジャー・クレメンスと同僚になった。

 「登板する日だよなと思って見たら、3、4時間前から汗だくなんです。こんなすごい選手が、1Aで投げるのに、これだけ準備しているんだと。あれを見てうれしくて、自分も、そうありたいと思いましたね」

 ヤンキースでの2年は2勝4敗、防御率6・66。公式球、調整法、起用法…。環境の違いに苦慮し、最後の3年はマイナーだった。

 「井の中のかわずでしたね。世界に出て、能力が高い選手もたくさんいて努力で埋まらない差が身に染みて分かりました。メジャーで投げたかったですけど、すごく勉強になりました」

 2年目が終わったとき、キャッシュマンGMから横手投げ転向を打診された。「横にして使えるようになった投手もいる。横投げにしなかったらメジャーに上がるチャンスはないよ」。それまで何球か、横から投げることもあった。だが、打者の目先を変えるためだった。「それは難しい」。断るとチャンスは消えた。厳しい世界の現実だった。

 和歌山・田辺は紀伊半島の南部にある。デーゲーム登板に備え、井川は早朝7時過ぎに車で神戸の自宅を出た。遠路2時間以上だが日帰りの旅を笑い飛ばす。

 「アメリカにいたときは毎日!! ニューヨークから3Aのスクラントンまで2時間半の往復です」

 今季は9試合に登板して無傷の8勝。54回を投げて防御率1・00だ。喜びも苦しみも味わった日々を振り返りながら、一度だけ、悔しげな表情を見せた。今年4月に楽天2軍との交流戦に先発し、3回3失点。オコエ瑠偉にはチェンジアップをとらえられたという。「1軍の試合に出ない子に結構打たれて恥ずかしかった…。もう1度、集中してやっていきたい」。まだ打者に向かっていける。