球界の功労者をたたえる野球殿堂入りが15日、都内の野球殿堂博物館で発表され、巨人、ヤンキースなどで活躍した松井秀喜氏が、43歳7カ月の史上最年少で選出された。現在、米国に滞在中の同氏は、日米両球界での経験を踏まえたうえで、少子化などに伴う野球人口の減少について「どうやって野球に夢を感じてもらえるか」と提起。自らも、将来的に貢献していきたい考えを明かした。

 日米通算で20年間にわたり、球界を沸かせてきた松井氏にとっての原点は、やはり日本だった。ヤンキース時代の09年、ワールドシリーズでMVPを獲得するなど、米国内でもスター選手として実績を残した一方で、松井氏は日本で野球殿堂入りした感慨を、しみじみとかみしめていた。

 1993年、ゴジラの異名を取り、石川・星稜高から鳴り物入りで巨人入りしたとはいえ、松井氏にとってプロの世界は別次元だった。プロ1年目。オープン戦で思うような結果が残せず、開幕を2軍で迎えた松井氏は、もがきながらも、必死に「巨人の4番」への道を歩んだ。思い出に残る一戦としては、「何かひとつを選ぶのは難しい」としながらも、2年目の94年の最終戦、リーグ優勝を決める中日との「10・8決戦」を挙げた。

 「あれほど大きい試合は、自分の野球人生の中ではなかったですね。オマケのようなダメ押し本塁打は打ちましたけどね。落合(博満)さん、原(辰徳)さん、そして当時の先発3本柱(槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄)ほどの重圧はなかったとは思いますけど。そんな先輩方が真剣な空気を出す中で、一緒にプレーできたのは、すばらしい経験になったと思います」

 当時の監督だった長嶋茂雄氏(現巨人終身名誉監督)との出会いが、松井氏の「礎」となったことは、言うまでもない。遠征地の宿舎だけでなく、東京・田園調布にある長嶋氏の自宅内で、頻繁に行われたマンツーマン指導の素振りは、今や語り草にもなった。

 「一番影響を受けたのが長嶋監督。それは間違いないです。ただ、そのほかの偉大な先輩、プレーヤーだけでなく、後輩にもすばらしい選手がいましたし、そんな選手と一緒に戦えたことが、大きな財産になったと思います」

 だからこそ、野球殿堂に選出された松井氏にとって、少子化などに伴い、競技人口の低下が懸念される日本球界の今後についての思い入れは深い。

 「子供たちが、やりたいと思えるプロ野球。どうやって野球に夢を持ってもらえるか。自分がどれだけ貢献できるか分かりませんが、そこが一番大事だと思います」

 未来の野球選手を育むためにも、夢をつなぐことに目を向ける松井氏。殿堂入りした同氏の存在感は、ユニホームを脱いでも変わっていない。【四竈衛】