プロ野球取材でお世話になった人はたくさんいる。どうしても亡くなった時に原稿を書きたいと、ずっと思っていたのは野村克也さんだった。

たくさん野球の話を聞いた。理解できずに取材の質問がかみあわず、衆人環視の前で恥ずかしい思いをしたことも何度もあった。特に作戦面、配球、守備位置、投手心理、打者心理。こうした話は奥が深く、理解できることと、到底想像がつかないことが入り組んだ。それでも、聞いて、聞いて、いつか分かるようになるのかな、そんな思いで必死に耳を傾けたのが30歳前後だった。

ヤクルト担当の時に、キャンプ中に記者に子どもが生まれた。それを当時の原田マネジャー、杉村広報担当が、野村監督にこっそり伝えてくれていた。翌日は早く西都球場へ行けと言われた。30分くらい早めに行くと、野村監督がドラム缶のたき火にあたっていた。「おはようございます」と、あいさつをすると、ゆっくりとこちらを向いて、にこりともせずに両手をヤクルトのスタジアムジャンパーに入れて見つめている。

少しして、ポケットから本を取り出した。「父性の復権」というタイトルだった。「これを読んで、しっかり子育てをしろ」。そう言われた。うれしかった。とてもうれしかったし、野村監督からそんな気遣いをしてもらったことが、少しだけ誇らしかった。

月日は過ぎて、野村監督がシダックスの監督をしている時に、子どものサッカーの試合が調布であったのでグラウンドに向かった。そういえばと、シダックスの練習グラウンドが隣接していると思いだし、グラウンドに寄った。野村監督が一塁側ベンチでぼーっと座っていた。「監督、こんにちは」とあいさつした。

すると野村監督は「どうしてお前がここに来るんだ?何の取材だ??俺はまた何かしたのか?」と、ゆっくりとした口調で問いかけてきた。その質問への答え方は分かっていた。「違いますよ。あいさつに来たんですよ。ちゃんと目上の人にはあいさつしろ、そう監督に教えられたから、こうして来てるんです。取材じゃないです、礼儀です」。すると、うれしそうに笑ってくれた。

子どもの試合が迫っていた。「それじゃ、また」と言って離れようとすると、「なんだ、もう行くのか?」と、寂しそうな顔をした。だからこう言った。「監督にいただいた本は2回読みました。正しい育て方かどうかはわかりません。でも、子育てをしています。監督、また来ます」と言って、調布のグラウンドを後にした。

昨年、久しぶりに野球記者に戻った。心のどこかで、いずれ野村さんに再会できると思っていた。きっと、忘れているだろうな。そんなに目をかけていただいたわけじゃない。その他大勢のメディアの1人だった。どこか球場の記者席で擦れ違っても、気づかないだろう。遠くから眺めるだけだったと思う。30歳で野村さんに多くを学んで、55歳になった。

もしも、会話できるチャンスがあったら、どんな話ができるかな、そんな妄想は幻に終わった。野球を愛した野村さんだったが、人間野村克也が、話をしていてとても好きだった。思ったことを言って反省し、そしてまたしゃべりすぎて自己嫌悪だと悔やむふりをする。堂に入っていた。本音をさらけ出していて、とっても魅力的だった。【94、95、98年ヤクルト担当=井上真】