球界のドンとして君臨し続けた野村克也氏。野球についての知識はもちろん、豊かな人間味で多くの思い出と財産を残した。歴代の担当記者が悼む。

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ヤクルト担当として野村監督を取材するようになった当時は『野村=ID野球』。野球の勉強ができると思い、とてもうれしかったのを覚えている。しかし、現実は甘くなかった。

巨人担当からヤクルト担当になっただけに、最初は「巨人のスパイ」として認定された。野球の話が聞きたくて質問しても「なんや、巨人に言うのか」と嫌みなひと言。野球の勉強をするためには、まずは1対1の時間を作れるようにならないといけなかった。

とは言っても、なかなか1人で話す時間はない。あるとすれば自宅から神宮球場までの車通勤の間だが、大物だけに自宅前の取材はNG。そこで勝負に出た。何日も前から好きそうな話題をまとめて頭の中で整理。大人数で話すときは“下ネタ”でもいいが、2人だけの会話では不向き。食い付く話は、やはり野球ネタしかなかった。

自宅前で待っていると、野村監督が登場。「自宅取材はダメやぞ」と怖い顔で言われたが「乗せて下さい」と言うと「今回だけだぞ」と言って、助手席に乗せてもらった。聞きたいことは山ほどあったが、欲望を抑え、自分が知っている選手ネタを話しまくった。運転中でもあり反応は分からなかったが、日を置いてまた自宅前で待っていると「また来たんか。乗れ」と同乗OK。「釣れた!」と思った瞬間だった。

験を担ぐタイプなだけに、監督の自宅に行くときは、試合に勝てそうな日を選んだ。当時は予告先発がなかったが、両チームの先発を綿密に取材した。休みの日でも、確実に勝てそうな試合があったときや「休みなのに野球の話をしたくて」とみえみえのアピールをするためだけに行った日もあった。下手な知ったかぶりや、トンチンカンな質問をして車に乗せてもらえなくならないように、必死に野球を見て、質問の仕方も考えた。

気が付けば、野球記者としての土台は、ヤクルト担当だった2年間で鍛えられた。記者であるならば、自分のことより、もっと面白いエピソードや野村監督の人柄について書かなければいけなかったのだろう。でも感謝の気持ちを伝えたかった。本当にありがとうございました!【97、98年ヤクルト担当 小島信行】