戦後初の「3冠王」に輝き、球界を代表するスター選手に上り詰めた野村さんだが、心の中にはいつも劣等感との葛藤があったのだろう。だが、それは同時に人一倍の向上心を生む。テスト生として南海に入団。鶴岡監督の下で、レギュラーをつかむまでになった。誰よりも貪欲に野球に取り組む姿勢、進取の気概…。名プレーヤーとなり、名監督へと上り詰めた。

「鶴岡さんは師匠ですけどね。鶴岡、三原、水原さんと日本3大監督と言われた有名な監督でしたけどもね。(現役時代は)僕はいつもノートとえんぴつをベンチに置いていたんですよ。私は日本海に面した田舎の高校しか出ていませんのでね。3年、プロで勉強してから母校に帰って、高校野球の監督をやるつもりでいたんですよ。ところが、ベンチで1行も書くことがないんですよ。鶴岡さんから学んだことは何もナシ。『気合だ! 根性だ! 打てない? ぶつかっていけ!』って。こういう監督ですから。何だあ? と思ってね。本当に期待外れというか。鶴岡野球の最初は何も勉強することがなかったですね」

「親分」と鷹ナインから慕われた鶴岡監督は、野村さんにとって反面教師だったのだろうか。「いいように考えればね。野球とは何か? と自分で勉強していくしかないというような思いになりましたね」。鶴岡親分への「ぼやき」となったエピソードは、ベンチのメモだけではない。栄光が落胆に変わったことも、一因だったかもしれない。

「南海も2リーグに分かれてから、なかなか日本一になれなくてね。何回かリーグ優勝しても、いつも日本シリーズで巨人に負けている(南海は51年からリーグ3連覇も、いずれもシリーズで巨人に敗退)。それを繰り返しているときに、私が南海のテストを受けて入ったんですけどもね。それが杉浦(忠)という大投手がいて、彼がホークスの運命を変えましたよね。(59年、巨人との日本シリーズで)4連投4連勝なんて考えられないようなことで、初めて日本一になってね。鶴岡さんが監督を辞められるときに、僕はちょうど選手会長をやっていました。幹部選手の5、6人で鶴岡さんの家に『辞めないでください』と、お願いしようということで行ったんですよ。その時に鶴岡さんから言われた言葉が『お前ら何しに来たんだ』と。その後にね、『本当に南海に貢献したのは杉浦だけだ』と、こう言われたんですよ。カチーンときてね。そりゃ、杉浦かもしれないけど、(捕手として)サイン出したのは俺やないか、という思いがあるじゃないですか。あれは自分が監督になるにおいて非常に勉強になりましたね」

一方で、大きな出会いがあった。67年にチームメートとなったドン・ブラッシンゲーム(ブレイザー)である。南海でプレーした3年間、ブレイザーから徹底してメジャー流の野球を吸収した。ブレイザーの言葉は強烈だった。

「彼の第一声は『日本の野球は10年以上遅れている』と。こういう話から始まったんです。そりゃそうですよね。日本は精神野球ですから。ブレイザーにこんこんと説教されて。野球はどう考えても頭のスポーツだと。間違いなくパ・リーグの野球はブレイザーと、そして阪急のスペンサーが変えましたね」。

パワーやスピードではなく、野村さんが傾倒していったのは「考える野球」だった。スペンサーは「クセ」の見破りにたけ、打席に入る前に必ず投手のフォームチェックを行っていた。「僕がキャッチャーをやっていると、スペンサーが後ろに来て、じっと投球を見ている。『あんなところで見せていいのか』とよく審判に抗議したんですけど、そういう視点を与えたのはスペンサーです」

84年の生涯で数限りない人たちとの出会いがあり決別もあっただろう。球界を代表する名選手であり、名監督となった野村さんにとって、間違いなくこの2人は「ID野球」を形作る上でのキーパーソンとなった。

野村さんがこの世を去って1年が過ぎた。現役時代から打倒巨人を掲げ「ON」をライバル視してきた。最大の敵を相手に古巣ホークスが2年連続でシリーズ撃破。それもともに無傷の4連勝である。「強者」となったホークスを、野村さんは天国からどんな視線で見つめているのだろうか。【取材・構成=佐竹英治】(おわり)