甲子園の優勝投手から球団スタッフに転身し、長寿のプロ生活を続ける人がいる。

1軍用具担当でオリックスを支える松本正志さん(62)だ。東洋大姫路(兵庫)時代は剛腕サウスポーで1977年(昭52)夏に全国制覇。同年秋のドラフト1位で阪急(現オリックス)入りし、プロ1年目で日本シリーズにも登板した。だが思うように成績を伸ばせず、87年の引退後は球団スタッフに。縁の下の力持ちが知る喜びがある。【取材・構成=堀まどか】

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第1章が「光」なら、第2章は「影」を選んで生きた野球人生だった。「高校時代、選手時代…。それぞれにいい思い出はありました」。松本は還暦を超えた今も、はつらつとした動きで練習を手伝いながら、10代のころを懐かしむ。

18歳の夏、甲子園の頂点に立った。第59回全国高校野球選手権大会決勝。延長10回を1失点で投げ抜いた。10回裏、主将の安井浩二が東邦(愛知)の1年生エース坂本佳一からサヨナラ弾を放ち、力投に報いた。

ドラフト1位で阪急入りし、1年目で日本シリーズ・ヤクルト戦に出場。第7戦の6回裏、ヤクルト大杉勝男が後楽園の左翼ポール際に放った大飛球の本塁打判定を巡り、阪急監督の上田利治が猛然と抗議した。1時間19分の中断で左膝に水がたまり、続投できなくなった足立光宏に代わって登板したのが松本だった。

松本 投球練習しながら足が震えて。大丈夫かなと思いながら投げたら、普通にストライク入って。結局はホームラン打たれたんですけど、自分の投球ができていたのが不思議でした。

大杉の次打者、チャーリー・マニエルにソロを浴び、0-3。後続は断ったが、阪急はシリーズ4連覇を逃した。ただプロ1年目から大舞台を経験し、翌年6月24日南海(現ソフトバンク)戦でプロ初勝利も挙げた。これからに思えた船出。だが初勝利は、最後の勝利になった。

松本 コントロールをよくするために、周囲のいろんなアドバイスを聞いて。その言葉通りにやるとフォームがだんだん、バラバラになって。それがクセになって、どれが自分のフォームだったのかわからなくなってしまいました。

周囲に応えようとする生真面目さが、このときばかりはあだになった。「みんなで“松本を育てよう”としてくれているのだ」ともがき続けたが、プロ10年目、区切りをつける時が来た。

松本 球団のおかげで10年やれました。当時は10年選手には年金があったので、それまではという思いがあったんじゃないですかね。実際には5、6年で終わっていたのに。

引退後の仕事も、球団は準備していた。現役時代の終盤、打撃投手などで練習を手伝う姿を見ていた関係者が、用具担当の道を用意してくれた。「球団に残れる」と胸をなで下ろした。半面、葛藤もあった。シーズンが始まると、他球団の同年代と顔を合わせた。

松本 中日の小松や広島の川口ら同年代がチームのエース格になっていた。声かけられて話をするときは、寂しかったですね。高校からドラフト1位でプロ入りして、同年代では自分がトップという思いが入団直後はあったんです。

まだ負けんぞ、とあがくことすらできなくなったのか…。寂しさが募った。思いを断ち切れたのは、人生への責任感からだった。

松本 この仕事を一生懸命にやっていたら、好きな野球に携わっていられる。ここからが勝負と思った。26歳で結婚もした。女房のご両親に心配をかけてはいけない、と思ったんです。

前だけを向いた。

松本 同期生に「頑張れよ」と言えるようになった。自分ができなかったことを彼らはやっている。そう思えるようになりました。

仕事は激務だ。チーム共有の用具、選手個人の野球道具の遠征先への運搬を手配。練習開始前に準備を整え、試合後には片付けと翌日の準備をする。沖縄・宮古島でキャンプを張っていたころは、グラウンドも作った。すべてにわたって遅れは許されず、気の休まる暇はない。それでも、仕事が好きだった。後輩の成長を見るのが楽しかった。球団から他の業務への打診も2度ほど受けたが「今のままで」と断った。そんな日々でイチローと出会った。

松本 こんな選手を近くで見られる。他の人には味わえない人生やと感じました。

人気に火がついたころ。遠征先のホテルではロビーを避け、イチローは裏口から出入り。取り決めた場所に荷物を出さず、部屋の前に置いていた。チームのルールは守ってほしい、と松本はイチローに話した。以来、イチローは自分で荷物を運んできた。素直な態度にいっそう期待感をふくらませて見守り、胸の内を言葉にした。

松本 「お前はボールと友達みたいやなあ」って言うたんですよ。あれだけの打者。頭の方にブラッシュボールが来たりする。普通なら腰が引ける。なのに、はい、いらっしゃいってポンと打つ。ボールを全然、怖がらない、守備でも、ボールの方からイチローのグラブに吸い付いていく。ボールと友達に見える選手は、見たことがなかった。

ボールは決して、イチローを傷つけない。イチローはボールを裏切らない。そんな絆を見るのは、極上の喜びだった。

甲子園のスターは、ボールを置いて陰に回った。一途に務めを果たし、光を輝かせてきた人生だった。(敬称略)

◆松本正志(まつもと・しょうじ)1959年(昭34)4月2日、兵庫県生まれ。東洋大姫路3年夏の77年甲子園大会にエースとして臨み、全国制覇。同年ドラフト1位で阪急入団。プロ1年目の78年7月5日クラウン(現西武)戦(平和台)で1軍初登板。80年6月24日南海(現ソフトバンク)戦(西宮)でプロ初勝利を挙げた。87年に現役を引退し、翌87年から阪急の用具担当に転身。通算成績は32試合で1勝3敗、防御率6・83。

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<取材後記>

東洋大姫路時代、甲子園で優勝する前から松本さんは人気選手だった。高校最後の夏を前に、松本さんが虫垂炎にかかったというウワサが高校野球ファンの間で飛び交ったこともあった。「あれはね、練習の合間に水が飲みたくなって、泥水を飲んだのよ。そうしたら水にあたって。夜中に救急車で運ばれて、痛み止め打って春の近畿大会に出たんです」。松本さんは苦笑しながら真相を教えてくれた。こまめな水分補給が絶対な今とは違い、練習中は水を飲めなかった当時がしのばれる逸話だ。

山ほどの努力、積み重ねが優勝につながることを知っている。その松本さんが今年、優勝への期待に胸を弾ませる。中嶋監督が、選手が自分で考えて取り組む態勢を作り、それに選手が応えている。「チームの雰囲気がいいよね」と松本さんも目を細める。96年以来25年ぶりの優勝へ。全員が一体となって、秋に向かう。【遊軍=堀まどか】