エンゼルス大谷翔平投手(27)とロッテ佐々木朗希投手(19)。元岩手朝日テレビ(IAT)アナウンサーの中尾考作さん(37=現フリーアナウンサー)は、岩手県が生んだ大物2人の高校時代に実況を務めた。2人の何を伝えたかったのか。信念の裏には、東日本大震災があった。

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花巻東高校3年、大谷翔平投手が打たれた3ランは、ポールの内側だったのか、それとも。論争になった放物線は何度も全国放送で流れた。「入りました~!」という自分の声が、何度も何度もテレビから聞こえてきた。実況した中尾アナはいま、振り返る。

「誰からとは言えませんが『今の、ファウルだよね?』という連絡も実況席に入りました。会社にも苦情が殺到していると。でも、僕らは判定に対して何かを言うことは絶対にできないので。でもこれは本当の話で、あれから2~3カ月は飲みに行けなかったですよ。『お前、IATだろ!』『あれはファウルだ!』なんて、僕はそんな論争したくないので。決勝の後に大谷君が『ああいう大きい当たりを打たれた自分が悪い』とコメントしてて、僕らもそうやな、そうっとしとこう、という感じになっていましたね」

高校野球と、真剣に向き合ったからこそ、違う形で「大谷翔平」を伝えたかった。

「大谷君は帽子のつばに『チームのために自分がいる』って書いてたんです。テングにならないように、自分が自分が、にならないように。佐々木監督からそんな言葉をもらってたらしく。彼はチームのために投げるんだってことを、実況で言いたかった。これ、朗希君にもつながるんですけど、みんなが朗希朗希朗希になってたじゃないですか。その時も大谷大谷大谷に。スピードガンコンテストです、要は。僕の関心は全然、そこじゃなかった。こんなヤツもいてあんなヤツもいて、チームとして甲子園を目指してる試合なんやで、と。練習試合じゃなくて、公式戦で甲子園かかって試合やってるんですって」

こんなヤツ、あんなヤツ、チームとして―。思いを深めた出来事がある。11年3月11日、東日本大震災は岩手県にも未曽有の被害をもたらした。

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「あの日、僕、休みだったんですよ。地震があったのが午後2時46分だから、3時くらいにはもう会社にいてたんですかね」

決して忘れることはない時刻。着の身着のまま出勤すると、ベテランのカメラマンがいた。「おい、中尾、行こう!」。3分もしないうちに車に乗り込み、社屋を後にした。IATでは毎年、津波や大地震に備え、訓練をしていた。沿岸、大船渡の取材拠点へとハンドルを握った。

花巻から遠野へ…一般道も信号が消えている。山を越え、ひたすら海へ。車内のテレビを付けた。同乗のカメラマンは「俺…撮れないわ。これ終わったら、カメラマン辞める」と絶句した。映像は見れなくとも、助手席の声色から多くを察した。「大船渡で、国道45号線に出たくらいが一番衝撃でしたね」。知っている街並みは、そこにはもうなかった。思い出すのもつらい数日を経て、会社から「一度戻れ」と指示があった。上司と大げんかした。

「目の前で本当に困っている人たちに情報を伝えたい。でも完全停電で、誰もテレビを見られない。何のためにやっているんだろう。何のためのローカル局なんだろう」

報道人としての矜持。自問自答を繰り返す中、必死に生き抜こう、元気を出そうとする岩手の人たちの姿に、1人の人間として揺さぶられるものがたくさんあった。8年たって、佐々木朗希という名の、大谷翔平に続く逸材が現れた時には、運命さえ感じた。最後の夏は、大谷フィーバーを超える熱があった。

「朗希君が大船渡高校だからっていうのは、岩手の人の気持ちとして圧倒的にあったと思います。僕もどっちかというと沿岸、沿岸になってたので」

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大船渡高校3年、佐々木朗希投手は4月に国内高校生歴代最速となる163キロをマークしていた。改元と重なり「令和の怪物」と呼ばれるようになった。3年夏の岩手大会では2試合を勝ち抜き、4回戦から岩手県営野球場に登場。そして4回戦の盛岡四戦で、160キロをマーク。「こういうことを言おう」といった言葉は、別に用意していなかった。

「160が何やねん、ってやっぱり頭にあったわけですよ。練習試合じゃなくて、目標の甲子園につながる公式戦ですよ。すごいじゃなくて、どんな意味があるのか。公式戦の過去最速なんだと。今まで高校野球の歴史が重なってきた中で、誰も投げたことない球だからすごい。でも、過去に1人だけ投げた人がいます。それが大谷翔平。ついに3年夏に、同じ球場で出た160キロ、ということを言いたかった。すごいですね、じゃなくて」

佐々木朗希が投げずに敗れた決勝戦の実況も担当した。報道規制もあり入手できる情報は限られた。しかし「あの日あの場所」で感じたものは自分にしかない。160キロより何より、岩手のアナウンサーとして、1人の人間として。連覇を成し遂げた花巻東を称えた後、少しの間を置いて、マイクへと声を出した。

「敗れた大船渡。小、中から知る、信頼できる仲間と。彼らにとって、これは、2週間の戦いではありませんでした。震災を乗り越えたちっちゃな野球少年だった頃からの、彼らの集大成でした」

台本も原稿もなく、半ば自然と出てきた言葉だという。「ちっちゃな」を、特に強く、ゆっくりと声に出した。

「自分も震災直後に行って、あの景色を知ってる。その子らがやってるのすごいよねって、優勝したら言ってあげたかった。岩手の皆さん、覚えてますよね。あの仮設住宅ばかりの、あのグラウンドから来た子たちです、っていうのを言いたかったんだと思います」

大船渡が優勝したら、実況で伝えたい話がたくさんあったという。でも。

「当時の実況中に使った話は、今も仕事で大船渡のことを聞かれたら、使ったりもするんですよ。でもね、優勝した時に…と思って取っておいたネタは、全部破棄しました。封印しました。昨日もね、一応メモを探してみたんです。でも、やっぱり捨てたみたいです。見つからなかったです」

なぜ、封印を。

「この夏にしゃべってね、って、そういう意味で彼らのお父さんやお母さんに託されたと思うんですよ。だから封印です」

岩手県を離れても、2人の試合はよく見る。

「震災の時に岩手にいたから分かることがあるし、特に朗希君は彼が大船渡出身なのは切っても切り離せない。僕も岩手にいた人間として、切り離せないからこそ、よけいに応援するよというのはあるんです。あの時の空気を分かっているから、応援したい。いいチームだったねって分かるから応援したい。その先のみんなを応援したいというのはあるから」

いつの日かまた、2人の試合の実況をと夢見る。「またいつか、現場で会いましょうね。会えるように、頑張らなアカンですね」。大阪のど真ん中、デパートの喫茶店。遠く岩手を存分に語り尽くし、スタジアムでの再会を誓った。【金子真仁】