日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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阪神の名三塁手だった三宅秀史も、あの世で背番号「16」の後継者、岡田彰布が導いた栄光を喜んでいることだろう。鬼籍に入って、3日で3年が過ぎた。

巨人の名将だった水原茂に「長嶋より三宅のほうが守備は上手」と言わしめた三宅だが、その野球人生は悲運としか言いようがなかった。

この日、かつて本人が自らペンをとって書いた秘蔵の「見取り図」を自室で探し出した。それは負傷した瞬間、だれが、どこにいたかをメモした生々しいものだ。

1962年(昭37)9月6日、川崎球場の大洋戦の前に事故は起きた。キャッチボールをしていた三宅の左目に、別のコンビからの球が直撃した。まぶたはざくろのように裂け、眼球が浮き上がって、顔面は真っ赤になった。救急車で川崎市立病院に運ばれ手術を受けて絶対安静となった。

882試合連続出場、700試合全イニング出場(04年に金本知憲が更新)が途切れた瞬間だった。その後は復帰を果たしたが視界が正常になることはなかった。意識が戻ったとき、枕元に実家の岡山から出てきた両親がいた。目の前を闇に閉ざされた日々。医師からは「飛び降りたらあかんぞ」と念を押された。

その後も、肝臓を患うなど、入退院を繰り返し、ついに生体肝移植に踏み切らざるを得ない状況になった。そのとき大学1年だった孫が、病床の三宅につぶやくのだった。

「おじいちゃん、ぼくの肝臓やるよ…」

かわいい孫が深い傷を負うことに葛藤したが、小さい肝臓が三宅の体に埋め込まれる。ほとんど取材を受け付けなかった当時、紙切れに書いてもらった見取り図を見ながら故人をしのぶ。

「巨人戦は殺気立ったわな。川上さんがいて、チョーさん(長嶋)、ワンちゃん(王)らスターがいて、我々はぶつかっていったし、攻めの守りをした。川上さんに『ナイスバッティング』と小声でいわれたときはうれしかった。当時は敵味方の私語はご法度だったが、神様といわれた人だから感激したよ」

三宅は阪神ファンにも“遺言”とでもいうべきメッセージを残している。「甲子園の阪神ファンにお願いがある」と。「敵の好プレーにも拍手を送ってほしい。野球は着実にメジャーを追い上げてきた。ファンもその域に達してほしい」。

三宅と吉田の三遊間コンビは最強といわれた。亡くなる前年の20年10月、三重・鈴鹿の「ときわ寿司」で2人は顔を合わせる。吉田がのれんをくぐると、三宅は大粒の涙をこぼした。これが最後の別れになった。

生前の三宅がしたためたハガキには「そろそろ優勝してほしいもの」と書き残したから、リーグ優勝、日本一を遂げた岡田阪神の成功には目尻を下げているはずだ。吉田と同じで、とにかく守備にはうるさい人だった。佐藤輝のフィールディングにも「もっと足を運ばんか!」とやさしい視線を送りながら、連覇に思いをはせていることだろう。(敬称略)