巨人が3年ぶりのリーグ優勝を果たした。前回09年優勝の復刻記事。【2009年9月24日紙面から】<巨人5-3中日>◇09年9月23日◇東京ドーム

 巨人がV9(65~73年)以来のセ・リーグ3連覇を成し遂げた。マジック1で迎えた中日戦を5−3で制し、33度目のリーグ制覇を決めた。原辰徳監督(51)はWBCの世界一に続いて、ペナントでもチームを優勝に導いた。06年の王監督(現ソフトバンク球団会長)も果たせなかった“ダブル優勝”の偉業を達成した。7年ぶりの日本一奪回へ、まずはクライマックス・シリーズ(CS)第2ステージの突破を狙う。

 高く、高く、舞い上がった。4万6335人の「タツノリ」コールに包まれ、原監督は現役時代の背番号と同じ8度、笑顔で宙を舞った。「年々、高くなっている感じがしますね」。ルーキーイヤーの81年、師と仰ぐ故藤田元司監督を初めて胴上げしたのも9月23日だった。優勝監督インタビューでこの話題を振られると、感極まった。「藤田監督も喜んでくれていると思います」。唇をきゅっとかんで、あふれそうになる涙をこらえた。

 4月11日から首位を譲らなかった。最後も2位中日に3タテを食らわせて7連勝。監督として自身4度目のVで最も余裕のある戦いぶりに見えた。しかし、原監督の胸中は違った。「こんなに不安なシーズンはなかった。一番大事な時期(春季キャンプ)に選手とともに過ごすことができなかった」。WBC監督との“掛け持ち”の難しさは、経験した者にしか分からない。王監督も、WBCから帰国後に病に倒れ優勝候補だったソフトバンクは3位に沈んだ。戦力を把握できないままシーズン開幕を迎えることへの不安は、想像をはるかに超えていた。

 キャンプで選手と触れ合えなかった「溝」はシーズンに入ってから埋めた。テレビ中継では、ベンチで冷静に指揮する「表の顔」しか映らない。だがその裏では、選手と一緒になって汗にまみれていた。東京ドームのロッカー室の奥には、今季からリニューアルされた打撃練習場がある。6月、自らが打撃投手になって坂本をマンツーマン指導していた時に、打球が額を直撃して流血した。その場に倒れ込んだ自分を見て青ざめた坂本の顔を思い出しながら「野球のボールってこんなに硬かったんだな、と思ったよ」と優しくほほ笑んだ。額の痛みより、選手の成長を間近で感じられる喜びの方が大きかった。

 原監督は世界一の称号以上に、大きな課題も持ち帰ってきた。「WBCに行って、日本だけの野球の基準が意外に多いことを学んだ。井の中の蛙(かわず)じゃないけど、当たり前と今まで思ってたことが、日本独特のものだったってね」。中でも、ボールの違いには驚いた。世界の舞台で球質の違いに苦しむサムライたちを見て、日本製の「飛ぶボール」が日本人スラッガーの進化を妨げていると感じた。原監督はWBCから帰国後、球団に対し巨人が公式戦で使用する公認球を国際試合と同じ「飛ばないボール」へ変更することを提案した。

 東京ドームは12球団の本拠地で最も本塁打が出やすいといわれている。ボールが変われば、当然、12球団最多のチーム本塁打数を誇る巨人は、最大の武器を失うことになる。それでも原監督はきっぱりと言う。「巨人に不利?

 そうかもしれない。野手だって嫌がるかもしれない。でも、そんな小さなことを言っていたら何も変えられない」。一時的に苦しんだとしても、将来的には必ずプラスになると信じている。さまざまな手続きが必要なためシーズン中の変更は断念したが、監督の熱意に押された球団は、来季のボール変更を検討し始めた。

 明治維新でちょんまげを切り落とした武士のように、日本の野球も変わっていかなければならない。今季のチームスローガン「維新」にはそんな思いも込められている。V9以来のV3だが「先輩がすごい数字を残してくれて、そこに1歩近づけたかなと思うが、通過点として頑張りたい」と言った。まずは、CSを突破して日本シリーズへ。「あと2つの大きな山を乗り越えて、頂点に立ちたい」。リーグ3連覇は終わりではなく始まり。世界でも通用する真の強さを追求しながら、7年ぶりの日本一奪回へ挑む。【広瀬雷太】