1984年2月3日、札幌市の中島体育センターで起きた新日本プロレス前代未聞のテロ事件。藤波辰己(辰爾)と長州力による「名勝負数え歌」の総決算とされた一戦は、藤原喜明の乱入により収拾がつかず試合不成立。興奮した藤波は、半裸のまま会場外に飛び出し、タクシーを拾って走り去った。当時の緊迫した様子を取材した記者が写真とともに振り返る。写真企画「袋とじ」、無料会員登録(所要時間1分)してご覧ください。

 
 

「俺の気持ちが、お前たちに分かってたまるか!」

雪が降る中、興奮状態で記者の質問に答える藤波(撮影・深山善喜)
雪が降る中、興奮状態で記者の質問に答える藤波(撮影・深山善喜)

追いすがる報道陣に藤波が一方的に残した激しい言葉が、37年が過ぎた今も鮮明に耳に残る。

「俺の気持ちがお前たちに分かってたまるか! こんな会社、明日にでも辞めてやる! 試合なんかしたくない! 猪木さんに言っておけ。俺は絶対に謝らないからな!」

しかし、藤波は翌日の苫小牧大会以降もリングに上がり続け、貝のように口を閉ざした。負傷した長州、テロの実行犯藤原はしばらくの間、リングを離れた。

「下には下がいることを忘れるな!」。藤原は長州を襲いながらこう吐き捨てていたという。総帥アントニオ猪木の練習パートナーにしてボディーガードだった、強いが地味な中堅レスラーは、これを契機に一気に耳目を集め、対長州維新軍の先頭に立つことになる。

裏で操った首謀者、実は・・・

新日本は前年からタイガーマスクの電撃引退、猪木社長体制転覆を狙ったクーデター未遂事件と激震続きだった。それに追い打ちをかけるようなテロを裏で操った首謀者が、実は猪木であったと、その後に一部関係者が証言している。ただ、いまだに多くの謎が残されたままだ。

札幌大会から2カ月後に新日本を離脱した前田日明をエースに第1次UWFが旗揚げされ、ビッグネームにのし上がった藤原も後に合流を果たす。さらに9月には長州らが退団してジャパンプロレスを設立し、ジャイアント馬場率いる全日本に戦いの場を移した。

栄華を誇った新日本は急坂を転げ落ちるように斜陽の時代を迎えるが、そのリングで孤軍奮闘し、支え続けたのはクーデター派の中心人物とされ、あの夜、反猪木の姿勢と退団を明言した藤波だった。

新日本札幌テロ事件は昭和のプロレスの伝説になっている。期待していた試合が消滅し、激高した多くのファンが「カネ返せ~!」と関係者に詰め寄るなどカオスを極めた北都の会場。目の前で繰り広げられた蛮行の深層で、本当は何が起こっていたのだろうか。【小堀泰男】

鮮血で顔を染めた長州(左)は藤波(中央)に襲いかかる(撮影・深山善喜)
鮮血で顔を染めた長州(左)は藤波(中央)に襲いかかる(撮影・深山善喜)
鮮血で顔を染めながら暴れる長州(撮影・深山善喜)
鮮血で顔を染めながら暴れる長州(撮影・深山善喜)
雪が降る中、多くの記者を引き連れ会場を後にする藤波(撮影・深山善喜)
雪が降る中、多くの記者を引き連れ会場を後にする藤波(撮影・深山善喜)
雪が降る中、タクシーに乗り込み会場を後にする藤波(撮影・深山善喜)
雪が降る中、タクシーに乗り込み会場を後にする藤波(撮影・深山善喜)