プロボクシングで5人の世界王者を育てた元ヨネクラジム会長の米倉健司氏が20日に亡くなったことが21日、分かった。88歳だった。

1956年(昭31年)のメルボルン五輪にフライ級で出場。プロでは日本フライ級、東洋バンタム級王座を獲得した。引退した63年に都内でジムを開設し、柴田国明、ガッツ石松、中島成雄、大橋秀行、川島郭志の5人の世界王者を育成。17年8月に高齢を理由にジムを閉鎖するまで、54年にわたり会長を務めた。

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米倉さんは高齢でジムの運営が難しくなったことを理由に、17年8月にヨネクラジムを閉鎖した。当時83歳だった。その後は医師になった息子のいる栃木県那須塩原市で療養生活を送っていた。大橋秀行らジムの愛弟子たちの訪問には、笑顔で記念写真に収まるなど喜んでいたという。

地元の福岡高校でボクシングを始めた米倉さんは、明大進学直後に日本初の世界王者の白井義男氏を育てたカーン博士に実力を認められて門下生になった。大学4年の56年にはフライ級で全日本選手権を制して、メルボルン五輪にも出場。メダルを逃したものの4位入賞の実績を残し、2年後の58年に日興ジムからプロデビューした。

プロ5戦目で日本フライ級王座を奪取。59年8月には兄弟子の白井氏から王座を奪った世界フライ級王者パスカル・ペレスに挑んだが判定負け。その後、バンタム級で東洋王座を獲得したものの、2度目の世界挑戦も僅差判定で敗れて世界タイトルには手が届かなかった。その試合直前に患った左目眼筋まひの影響で63年に28歳で引退するとすぐに都内にジムを開設した。

会長になってからは選手を型にはめずに特徴や個性を生かす指導法と、早朝のロードワークから選手と伴走する情熱ぶりで、次々と王者を育てた。ジム最初の世界王者で2階級を制覇した柴田国明は、17歳から世田谷区内の自宅に住まわせて日常生活から世話をしたという。世界王者になる前に11敗していたガッツ石松氏は17年の取材で「何でも好きな物を食べろ”とお金に糸目を付けなかった。私も意気に感じてね。負けても、これでもかとチャンスをつくってくれたから開花した。ヨネクラジムに入ったからこそ世界王者になれた」と振り返っていた。

ジム開設から54年間に育てた世界王者は5人。これは国内のジムでは3番目。日本王者は31人、東洋太平洋王者は9人で帝拳に次ぐチャンピオンメーカー。獲得したベルトの合計本数は実に52にも及ぶ。まさに70歳代まで自らミットを持ってパンチを受け続けた米倉さんの情熱のたまものだった。

 

◆米倉健司(よねくら・けんじ)1934年(昭9)5月25日、福岡・直方市生まれ。福岡高1年でボクシングを始め、53年に明大入学。56年メルボルン五輪にフライ級で出場して4位。58年5月にプロデビュー。右の技巧派ボクサーとして5戦目で日本フライ級王座を獲得し、60年に東洋同級王座を奪取して4度防衛。59年に世界フライ級王者パスカル・ペレス(アルゼンチン)、60年に世界バンタム級王者ジョー・ベセラ(メキシコ)に挑むも判定負け。通算戦績13勝(1KO)10敗1分け8エキシビション。引退した63年に東京・大塚にNPヨネクラジムを創設。69年に目白に移転。17年8月の閉鎖まで世界王者5人を育てた。86年から日本プロボクシング協会会長を4年間務めた。95年にスポーツ功労者として文部大臣表彰を受けた。