金髪の悪役レスラーとして活躍した、元プロレスラーの上田馬之助さん(本名・上田裕司)が21日、自宅のある大分県臼杵市内で急死した。71歳だった。関係者によると、この日午前、同市内の自宅で具合が悪くなり、救急車で病院へ搬送中に息を引き取った。死因は明らかにされていない。上田さんは1960年(昭35)に相撲界から日本プロレス入り。70年代から国際、新日本、全日本などを渡り歩き、凶器を使った凶悪ファイトで、アントニオ猪木らと名勝負を繰り広げた。96年に自動車事故で脊椎を損傷し、リハビリ生活を送っていた。

 希代の悪役レスラーが、天国のリングへ召された。車いす生活だった上田さんは21日午前10時ごろ、自宅で体調が急変した。恵美子夫人は外出中で、介護ヘルパーが異変に気付いた。知らせを受けた夫人が急きょ帰宅し、救急車を呼んだが、搬送中に息を引き取ったという。

 上田さんは96年3月16日、仙台市での試合を終えて東京に車で戻る途中、埼玉県内の東北自動車道で交通事故に遭った。運転していたプロレス団体の職員は死亡。上田さんも車外に約20メートルも飛ばされ、道路にたたきつけられた。脊椎損傷で胸から下がまひし、車いすでの生活となり、恵美子夫人の郷里である大分・臼杵市へ移住。リハビリ生活を送りながら、夫婦でリサイクルショップを経営していた。

 現役時代は一匹おおかみの悪役レスラーとして、ファンの憎悪を一身に買った。60年に大相撲を引退して日本プロレスに入門。同期のジャイアント馬場、アントニオ猪木の陰に隠れた地味な存在だったが、米国遠征でプロモーターの勧めで「悪役」を演じたことが転機となった。日本プロレス崩壊後、髪を金色に染めて、竹刀や凶器を振り回す反則ファイトで団体を渡り歩いた。

 最盛期は70年代。新日本に参戦し、猪木のライバルだったタイガー・ジェット・シンと凶悪タッグを結成。当時の日本マット界で初めて登場した本格派の日本人ヒールレスラーとして、人気レスラーの猪木や坂口征二を相手に、血の抗争を繰り広げた。無数の五寸クギが突き出た板をリングサイドに敷き詰めた、猪木との前代未聞の「五寸クギ板デスマッチ」は今もファンの語り草になっている。

 リング上では悪役を貫いた。「どうやったら嫌われるか」を常に考えていたという。だが、素顔は心の優しい紳士だった。試合会場ではファンからサインを求められても払いのけていたが、後でこっそりと練習生に色紙を取りに行かせてサインをしていたことを、後年、明かしている。現役時代から子供の施設を訪問するなど、ボランティア活動を続けていた。

 車いす生活になってからは、98年4月の力道山OB会主催の引退記念大会を最後に引退。その後は、障害者施設などを訪問するボランティア活動に精を出した。09年には移り住んだ大分のローカル団体FTOの所属レスラーに「上田馬之助」を襲名させるなど、地域に根差した活動にも取り組んでいた。

 23日に通夜が、翌24日には告別式が行われる。会場はいずれも玉泉院臼杵会館(大分県臼杵市市浜1126)。昭和のマット界を彩った名物レスラーがまた1人、新たな年を目前にして旅立った。