政府の緊急事態宣言が延長され、スポーツ界も「自粛」状態が続いている。日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

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暑く、長い夏の1日だった。16年7月31日。元横綱千代の富士の九重親方が亡くなった。その日は、夏巡業取材で大阪から岐阜市内へ日帰りで出張していた。仕事を終えて夕方の新幹線でのんびり帰阪していると、デスクから携帯電話に一報が入った。

「九重親方が亡くなったようだ。福井に行ってくれるか」

えっ…。しばし、絶句した。親方は都内の病院で亡くなったが、力士や親方衆一行は岐阜からバスで次の巡業先の福井市へ向かっていたため、そこで関係者を取材してほしいということだった。新大阪駅に着いたのは午後6時ごろ。自宅まで着替えを取りに行く時間などない。慌てて特急サンダーバードに乗り換え福井へ向かった。午後8時過ぎに着くと、駅前のホテル周辺で関係者を捜し回った。

取材していて、動悸(どうき)が収まらなかった。昭和49年生まれの記者にとって“大横綱”といえば、千代の富士だった。筋骨隆々の体で豪快につり出し、上手投げで勝ち続ける姿は、ヒーローそのもの。子供のころ、狭い家の中で父親と相撲を取る時は、ベルトを前みつ代わりに引きつけて頭をつけ、千代の富士になりきっていた。記者になってから関係者の紹介で食事をした際は「俺は日刊が嫌いなんだ!」と言われてビビリまくったが、マッコリをたくさん飲むと笑ってくれた。そして、ひとたび相撲の話になると現役時代のような鋭い眼光に戻り、言った。「三役が大関を、大関が横綱を目指すなら、もっともっと稽古をやらないと。『もっと』じゃないよ。もっともっと、だ」。少し前まで熱く語っていた“大横綱”が死ぬなんて、信じられなかった。

その夜は結局、午後11時過ぎまで取材を続け、元大関栃東の玉ノ井親方や、豪栄道らから思い出話を聞いた。翌8月1日は1~3面と芸能面で死を悼む記事が掲載されたが、紙面を見ても亡くなった実感は湧かなかった。4年の歳月が流れた今も同じだ。テレビで見た現役時の勇姿も、一緒に飲んだ時の笑顔も、「もっともっと、だ」と力を込めた険しい顔も、すぐによみがえってくる。心の中で生き続けるとは、こういうことなのか。横綱千代の富士が、教えてくれた気がする。【木村有三】