大相撲の元関脇安美錦の安治川親方(43)が、夏場所後の5月29日に東京・両国国技館で引退相撲を行う。2019年名古屋場所で引退してから約3年。新型コロナウイルスの影響で2度延期の末に、ようやくマゲを切る。この空白期間に、安治川親方は早大大学院に学び、人生においての貴重な出会いもあった。「その後の安美錦」について聞いた。【取材・構成=佐々木一郎】

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夏場所が行われている国技館の正面入り口を入って左奥。安治川親方は、引退相撲のチケットを手売りしている。対面しながらのやりとりが、何よりうれしい。再延期の末に迎える最後の大舞台が、迫ってきた。

40歳で引退し、当初は2020年10月4日に引退相撲を実施する予定だった。しかし、新型コロナウイルスが発生し、21年5月30日に延期。コロナ禍は続き、今年5月29日に再延期した。決断するたびに、心が痛んだ。

「すでにチケットを販売していましたから…。買ってくれた人のためにもなんとかできないかと、すごく悩みました」

延期をするたびに、チケットやチラシを刷り直し、経費はかさんでいく。それでも、来場者の安全を優先した。

国技館で実施するには、会場の空き状況も考慮しなければならない。そのため、換気のよい屋外の明治神宮や野球場など、あらゆる可能性を探った。実際に問い合わせた会場もあったという。

日本相撲協会の協会員として、コロナ禍の外出は制限があった。「ちょっと食事に行って、(チケットを)買ってもらうようなお願いもできない。半分以上のチケットが1度はキャンセルになりました」。

折れそうになった心をつなぎとめたのは、根強いファンの姿勢だ。

「約3年前から買ってくれている人がいる。それが本当に励みになりました。キャンセルもせずに待ってくれている人がいたという事実が、心の支えになりました」

空白の期間は、大事に使った。2021年4月、早稲田大学の大学院スポーツ科学研究科に入学。伊勢ケ浜部屋の部屋付き親方として後進の指導を続けながら、1年間、平田竹男教授に師事した。

午前は朝稽古、午後は引退相撲の準備をしつつ、授業や論文に時間をあてた。 「指導をしながらですが、やれるのではないかと。いい機会とは言えませんが、学びたい気持ちがあったし、今ならできるんじゃないかと。ずっと相撲の世界にいたわけですから、凝り固まった頭をほぐし、違う目線で相撲を見られないかと思った時、大学院で研究することはいいことだと思いました」

修士論文のテーマは「相撲部屋におけるおかみさんの役割について」。質問を精査し、相撲部屋のおかみさん6人にインタビューした。

相撲部屋のおかみさんは、特殊な存在だ。協会員でないから、給料は出ない。しかし、力士の母親代わりとして部屋を切り盛りし、後援者との付き合いも多い。妻でもあり、母としての顔を持つ場合もある。将来的な独立を視野に入れる安治川親方にとっては、今後の人生に研究テーマが生きてくる。

「相撲協会としては、今後の相撲部屋の可能性を広げるためにも、おかみさんたちに講習会の機会を設けることも大切ではないか。協会の講習会に参加したり、ビジネススキル向上の講習会があってもいいと思います。弟子たちにとって何がいいかを考えた時、経営や普及の面で、おかみさんにはまだ可能性がある。そういうことにも取り組みました」

40歳を超えてからの学びは、刺激的だったという。平田教授の前で発表する時、左手首につけていたアップルウォッチが突然鳴り出した。緊張で心拍数が130を超えたため、アラートが発せられたのだった。

土俵上でのポーカーフェースにより、対戦相手から「何を考えているかわからない」と恐れられ、金星8個を獲得した強心臓力士が、教室では脂汗をかいた。1年間の学びについて「ものすごいよかったです」との実感を得られた。

いい出会いもあった。

知人との食事会で、実業家の亀井淳氏と知り合った。イトーヨーカ堂の元社長(現在は顧問)は、話す内容1つ1つが魅力的で引き込まれた。

「話すすべてのことが『徳』がありそうなこと。経営者はこうあるべきだということを教えていただきました。相撲の指導にも生きるし、もし(独立して)部屋をやることになったら、そういう視点も大事だと感じました」

2度の引退相撲延期は、決して喜ばしいことではない。しかし、延期があったからこそ、大学院進学と亀井氏との出会いがあった。

「無駄な時間とは思っていませんから。年齢はいってしまい、スタートは遅くなってしまったけど、それに余りあるものを身につけられた。チケットを買ってくれた方をお待たせして申し訳なかったけど、待ってくれた方を思えば頑張れた。応援してくれるありがたみを実感しました。いい期間でした」

その後の安美錦は、安治川親方として濃密な時間を過ごしていた。

10代の時から親しんだマゲとは、もうすぐお別れ。1人でも多くの人に、見届けてもらいたい。満を持して、大事な日を迎える。